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第11回アルゼンチン大会

17歳マラドーナ、涙の落選


 母国アルゼンチンでの初優勝を託されたのが、メノッティ監督だった。軍部が政治を握る不安定な情勢下で、政府、国民から受ける重圧は大きかった。

 代表チームは南米選手権で12度、クラブ勢もリベルタドーレス杯で12度の優勝と、ブラジルを上回る成績を収めていた。だがW杯は、70年大会は予選落ち、74年は2次リーグ敗退と低迷。W杯に出ると有力選手が欧州へ引っ張られるケースが多く、クラブが代表強化に消極的だったことも影響した。そんな流れを自国開催と軍事政権の圧力が変えた。

 メノッティ監督は選手を選抜する対象クラブを首都圏から全国へと広げた。国際試合を年15試合消化し、欧州の巧みなゲーム運びを経験させた。開幕直前には4カ月間の長期合宿を実施。1週間前後で終えていた従来の慣習を打ち破った。サッカー協会も、バレンシアに所属していた「闘牛士」ケンペスに高額のレンタル料を支払って呼び寄せるなど必死の姿勢をみせた。

 従来の守備的でラフな古い戦いからの脱却を必要と感じたメノッティ監督は、ケンペスら攻撃センスあふれる選手を集めた上でチーム統制に力を注いだ。まだ25歳ながら規律に厳格だったパサレラを主将に抜てき。個性派集団をまとめさせた。指揮官は背番号をアルファベット順につけるなど伝統にとらわれない約束事でチームを束ねていった。

 戦術的な柱はアルディレス(元東京V監督)だった。168センチ、66キロと小柄ながら頭脳的なプレーでチームを頂点に導いた。大会最優秀MFに選ばれ、その後イングランド初のアルゼンチン選手としてトットナムに移籍した。なお、メノッティ監督は、当時17歳だったマラドーナの起用を最後まで悩んだ。そして、経験値と重圧を考え、大会1カ月前にメンバーから外した。涙を流した天才のW杯は、4年後に持ち越された。

















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