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国際派目前で…/1989年11月8日付

1989年11月8日付 19面
1989年11月8日付 19面

 松田さんは、国際俳優への第一歩を踏み出した矢先の急死だった。来年には40歳を迎え、伸び盛りの時期だっただけに、その死は、かつてのジェームス・ディーンの事故死にも匹敵する深刻な衝撃を日本の映画界に与えた。

 東京・三鷹市の霊泉斎場で行われた通夜の場は、文字通り日本の映画界を代表する一線級の俳優・スタッフが大集合する形となった。これは松田さんの俳優としての大きさだけでなく、まさにハリウッド界へ第一歩を踏み出したその矢先という、あまりにも惜しまれる死だったからだ。

 米国に次いで先月14日から日本公開となった「ブラック・レイン」(リドリー・スコット監督)では、オスカー俳優のマイケル・ダグラス、日本を代表する高倉健と互角以上の共演ぶり。松田さんが演じた日本の冷血でハ虫類を思わせるようなヤクザのキャラクターは、ニューヨークタイムズをはじめ米国マスコミの絶賛をうけた。所属事務所の黒沢満社長によれば「ハリウッドのプロデューサーから次回作の話が持ち込まれたが、体調不良を理由にペンディングにしていたんです」という。

 松田さんが「狼の紋章」(松本正志監督)でデビューした昭和48年は、邦画界が斜陽のどん底にあった時期。制作費削減などの制約を受け、文字通り”妥協”映画作りが進行する中、数少ない一徹なまでの映画作りに打ち込んだのが松田さんだった。アクション映画の名コンビといわれた村川透監督とも、舞台裏ではあわや取っ組み合いとなりそうな激しい討論の連続。そんな中で最後は自分の意思を通し、アクの強いアクションスタートしての地位を確立した。

 だが、昭和50年代後半ごろからアクション映画の人気にかげりが見えてくると、58年には2歳年下の森田芳光監督による「家族ゲーム」で見事な演技派として再生した。

 自己主張はとことん通すが、それが時流に合わないと見るや、路線変更をする柔軟さも備えていた。その後は同じ森田芳光監督の「それから」、吉田喜重監督の「嵐が丘」と文学作品が続き、演技派としての地位を確立。そして「ブラック・レイン」で3回目の飛躍を遂げようとした矢先の死だった。

 ジェームス・ディーンがハリウッド映画の隆盛期の中でのびのびと演技をし、亡くなっていったのに対し、松田さんはそれまでの悪条件の中で個性を磨いた対照的な生きざま・死にざまといえそうだ。

[1989年11月8日付]



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