荒木2000安打で初涙!落合監督の言葉に救われた

中日対楽天 4回裏中日1死、2000安打を達成し、記念ボードを掲げる荒木(撮影・上田博志)

<日本生命セ・パ交流戦:中日1-5楽天>◇3日◇ナゴヤドーム

 中日荒木雅博内野手(39)が「日本生命セ・パ交流戦」の楽天2回戦(ナゴヤドーム)の4回に右前打を放ち、プロ野球48人目の通算2000安打に到達した。ドラフト1位入団ながら、非力でやゆされることもあった。打撃に自信のなかった男が、卓越した守備と走塁で働き場所をつかみ、22年かけてつかんだ打の勲章。通算33本塁打は2000安打達成者で最少だが、この33本こそが偉業への道を表していた。

 タイミングがずれたが、瞬時に軽打に切り替えた。打球は右前にライナーではずんだ。荒木らしい一打だった。笑みがはじける。すぐに目に入ったのは楽天星野副会長。入団時の監督だ。大きな花束を受け取り、目に涙が浮かんだ。プロで泣いたことはない。「こんなにうれしいんだって」。22年間の苦しみが、感動となって胸を突いた。

 「俺みたいに技術のないヤツが申し訳ない。でも最近よく『お前の2000本は価値が違う』って言われる。打撃ではなく、得意なものを生かしてここまで来た。勲章だよ」

 運動能力を買われ、95年ドラフトで中日から1位指名された。だが、あまりに非力だった。打撃ケージから打球が出ず、陰口も聞こえた。絶望の中、3年目からは両打ちに挑戦。「左」で2安打したが、クビを覚悟していた。右打ち一本に戻した01年に規定打席未到達ながら3割3分8厘。初めて自信が芽生えた。

 03年オフ、就任したばかりの落合博満監督に「長所を伸ばせ。お前は打てなくても使うから」と言われた。この言葉に救われた。井端(現巨人内野守備走塁コーチ)との「アライバ・コンビ」で黄金期を支えた。33本塁打は2000安打到達者で最少だが「それくらいの選手だったから徹底して小技をやった。33本のおかげで2000本打てたんです」。守備と走塁。生きる道を突き詰めてきた。

 「俺ら、幸せだよね。野球やってりゃいいんだもん」。祖父告(つぐる)さんは戦時中、鹿児島・知覧にいた。特攻隊ではないが、状況はよく聞いていた。祖父はプロ入りを喜び、病床で掲載紙を指でちぎっては眺めていた。だが1年目のキャンプイン前に他界。「プロの姿を見せたかったな」。葬儀で思った。愚直にまい進する男の原点だ。

 今も打撃には自信がない。「不安だらけ。怖くて、怖くて。自信を持ってやったこと1回もないんだよ」。右肩痛に悩んだ05年は痛み止めの注射を打ち続けた。ポジションを奪われる恐怖に駆られた。その恐怖心が原動力でもある。今年、野手最年長にして30メートル走でチームトップタイムを出した健脚も、毎日の積み重ねが生んだものだ。

 「やってもやっても結果が出ないことがある。よく頑張ったかな」。絶望的な貧打だった荒木は、ついにバットマンとして歴史に名を刻んだ。【柏原誠】

 ◆荒木雅博(あらき・まさひろ)1977年(昭52)9月13日、熊本県生まれ。熊本工では2年からレギュラーに定着し、センバツに2度出場。95年ドラフト1位で中日入団。97年5月31日ヤクルト戦でプロ初出場。01年途中から二塁手の定位置を確保。落合博満監督の下では4度のリーグ優勝と07年日本シリーズ優勝に貢献した。10年から遊撃手に挑戦。16年には球団の通算盗塁記録を更新。07年盗塁王、04~06年ベストナイン、04~09年ゴールデングラブ賞を獲得。井端弘和との二遊間コンビは「アライバ」コンビと呼ばれた。180センチ、74キロ。右投げ右打ち。今季推定年俸7040万円。

 ◆荒木が3日の楽天2回戦(ナゴヤドーム)の4回、美馬から右前打を放ってプロ野球48人目の通算2000安打を達成した。初安打は97年6月11日の広島10回戦(広島)で高橋建から。荒木は熊本工から95年ドラフト1位で入団。プロ5年目までに打った安打は15本(達成48人中最少)しかなく、プロ22年目の達成は谷繁の25年に次ぎ、大島と田中と並び2番目、実働(1軍出場)21年目は谷繁25年、田中22年に次いで中村と並び3番目に遅い。また、熊本工出身は川上、前田に次いで3人目となり、2000安打達成者が3人以上出た高校はPL学園の6人に次いで2校目。