ロッテのドラフト1位藤原恭大外野手(19)が、「プロの壁」と闘っている。3月29日、楽天との開幕戦では球団高卒新人として54年ぶりにスタメンを勝ち取り、「1番中堅」で先発出場した。第4打席で遊撃深くに打球を転がし、自慢の快足をとばして安打を放った。4月7日に抹消されるまで19打数2安打2打点。打率1割5厘の成績を残した。


ロッテのドラフト1位ルーキー藤原
ロッテのドラフト1位ルーキー藤原

高卒ルーキーがプロの世界でいきなり安打を放ち、さらに打点も挙げた。それでも、藤原は言う。

「正直しんどかったですね。朝起きて寝るまで…(今まで)あんまりなかったけど、『今日、嫌だな』っていうのは毎日ありましたね。それ(プレッシャー)もありましたし、練習もしんどかったですし、『これがプロの壁か』っていうのは技術面以外でもありました」

■「こんなにしんどいとは…」

朝を迎えるのが辛い日々が続いた。どこまでも上を目指すルーキーは意識の高さゆえに悩んだ。千葉・幕張で夜遅くまで試合に出場し、その後に自主トレ。浦和の寮に戻ったと思ったら、もう朝という繰り返しが続いた。


開幕戦の楽天戦で初安打を放った藤原(左)
開幕戦の楽天戦で初安打を放った藤原(左)

中学、高校時代も世代では超一流のレベルでやってきた。が、「高校の時はこんなにしんどいとは思いませんでしたし、何て言うか、もっと楽な感じと思ってたんですけど、プロ野球選手って野球だけじゃないんで。そこが一番きましたね」とこぼした。高校時代にはなかったファンサービス、多くの取材対応。この日もイースタン・リーグでフル出場後、練習を終え、寮に戻った後に取材に応じてくれた。高校時代は「おかしな言い方ですけど、ほんとに野球と勉強だけをやってればということだったので。全然、プロ野球選手とは違いますね」。今までと違い、社会人として、プロの選手としてやらなければならないことは山ほどあった。

■球場表示の数字も意識

プロならではの環境にも苦しんだ。超満員の観客。ビジョンにはデカデカと成績が映し出される。高校までは打率などが表示されることはなかった。細かくデータを取っている人にしか、自身の成績はわからなかった。プロになり、その日たまたま観戦にきた人にもわかるようになった。

「あんだけ人が多い中、打率が出るんで、『ああ、打ってないな』と打席に入る前に思う。それが一番嫌でしたし、周りの目線も気になりました。『何で打ってへんのに』みたいなのもあると思うので」

12球団の高卒新人で唯一、1軍出場を続けたルーキーだけに注目も集まった。


3月30日楽天戦、1回に藤原は見逃し三振に倒れ引き揚げる
3月30日楽天戦、1回に藤原は見逃し三振に倒れ引き揚げる

  ◇  ◇

そんな藤原にとって、野球を初めて最初の「壁」はあこがれであり目標でもあった兄だったのかもしれない。父史成さんが監督を務める園和北フレンズで野球を始めた。2つ上には兄の海成さんがいた。

「自分は早めの時から試合に出させてもらっていたので、僕的には2個上のお兄ちゃんがいたのがやりやすかったっていうのが大きいです。目標にできていたので、お兄ちゃんの方が嫌だったかなって思いますね」

自らは3番を打ち、兄が4番。越えるべき目標が身近にいた。自宅に戻ると2人で素振りをするなど切磋琢磨(せっさたくま)し、野球の基礎を築いた。

■ボーイズでは小園海斗が壁に

中学では、自宅から車で片道1時間かけて枚方ボーイズに入部することに決めた。元々、同チームの強さを知っていたわけではないが、練習見学に行き、衝撃を受けた。2世代上は全国大会5冠を達成。レベルの高さはひと目でわかった。「(自分は)小学校でこの辺の地域では一番うまいという自信はありましたし、少してんぐになっていたところはあります。小学校の自分のチームは同級生も1人しかいなかったですし、枚方ボーイズからも誘いもあり、強いところ、うまい人が集まっているところでやりたいというのが一番でした」。そこで、小園海斗(現広島)との出会いを果たすことになる。


3月30日楽天戦、3回に藤原は左飛に倒れる。投手美馬
3月30日楽天戦、3回に藤原は左飛に倒れる。投手美馬

小園は、藤原より約半年ほど遅れて入団してきた。最初は「足が速いなというのは思っていたけど、そこまで敵対心はなかった」という。しかし、与えられた場面で小園が結果を残し、遊撃の定位置を確保した。遊撃手だった選手が右翼に回り、藤原の出場機会が激減した。文字通りの「壁」となったのだ。

「(チームみんなの)個性が強かったので、小園に限らず、すごい選手が集まっていた。自分も負けないようにっていうか日々アピールして毎日どうやるかって必死でした」

枚方ボーイズでは親たちがコーチとなり指導に携わるため、練習で気を抜こうものなら父から怒られ、帰りの車中は沈黙と化した。

■大阪桐蔭の「地獄の日々」

そんな生活を3年間続け、高校は大阪桐蔭へと進んだ。後に甲子園春夏連覇を達成する強豪校だが、意外にも、初めは中学ほど衝撃はなかった。高いレベルで野球をやってきた自信があったからだった。「すごいとは思ったんです。でも、普通はもっと『高校すごい』ってなると思うんですけど、中学校の方が衝撃はありました。正直やっていけるのかもしれないなっていう気持ちが少しありました」。だが、そんな気持ちもすぐに吹き飛んだ。

「ユニホームを着てわかることってあると思う。自主練とユニホームを着てやるときの動きは違うってあるんですけど、本当にその通りで、最初は思うようなプレーができないっていうときもありましたね。本当に地獄の日々で、1週間が何年かのような感じがありました」

慣れない寮生活。周囲に何もない立地で、洗濯なども自分のことは自分でしなければならない、生活の違いも立ちはだかった。そんな中で新たな盟友であり「壁」に出会う。

■ダッシュは根尾にも負けなかった

「正直(ライバル意識は)ありましたね。入ってくる前から自分より名前も売れて、はるかに有名でしたし…。根尾(現中日)であったり柿木(現日本ハム)であったり中川(現早大)であったり、本当にみんなスケールが大きく名前の売れた選手が集まるとわかっていたので、入る前からライバルと認識してやっていました」


4月13日イースタンリーグの試合前、会話を交わす日本ハム柿木(左)と藤原
4月13日イースタンリーグの試合前、会話を交わす日本ハム柿木(左)と藤原

中でも、根尾は負けられない存在だった。入学直後は走るメニューが中心だった。「根尾も足が速いと聞いてましたけど、自分が一番速かったので、そこだけは通用するなっていうのはありましたね」。グラウンドの外野フェンスの奥にある坂で、2人1組で3年間何度もダッシュは行った。その相手は根尾や宮崎(現立大)だった。チームでもトップクラスの足を持つ2人と競い、己の武器を磨いた。「1本も負けなかったですね(笑い)」。負けず嫌いの血が騒いだ。彼らの存在が、さらに藤原を高めた。

  ◇  ◇

ともに汗を流してきた仲間、甲子園で対戦したライバル…、多くの同期がプロの門をたたいた。しかし今は彼らは「壁」ではない。

「正直、今は高校ほど、あんまりライバル意識は持っていないです。自分たちよりすごい選手がほとんどなんで、僕らはまだまだ下のレベル。僕以外もみんな意識してないと思う。たまにニュースとかでは耳に入りますけど、めちゃくちゃ意識はしたりしないですね」

まだまだお互いスタートラインに立ったばかり。今はすでに活躍する先輩たちがライバルだ。

■ライバルになるのは結果出してから

1軍で2安打という結果を残しながらも、藤原は「ラッキーヒットだったんで自信にはならないです。自分がしっかりボールを見切って打ったやつがヒットになったわけではないので。今のレベルで(1軍に)上がっても打てないのはわかっているので力を付けるしかないです」。現状に満足せず、さらに上をめざし続ける。だからこそ、藤原の未来は明るい。今は2軍で実戦を積みながら、試合後にはウエートトレーニングを続け、文字通り力を付けている最中だ。入団時には77キロだった体重も、80キロ台に乗った。プロの体もできつつある。


5月8日、イースタン・リーグ日本ハム戦で左前打を放つ藤原
5月8日、イースタン・リーグ日本ハム戦で左前打を放つ藤原

何年後かはわからない。数年後、皆が一線で活躍するようになって、あらためて同期は互いにライバルとなる。

「自分を含めて、みんなが1軍に出だして結果を残してきたら(その意識は)変わってくると思いますね」。

日々奮闘中。お互いに「壁」と思えるようになる日を夢見て、藤原は今日も挑み続ける。【久永壮真】