【アマ編】パンツ血まみれ「地獄の下宿」午前2時の脱出劇/西武・渡辺GMの人生

西武のチーム作りの根幹を担う渡辺久信GM(57)。現役時代は最多勝を3度獲得するなど黄金時代を支え、ヤクルト、台湾でもプレー。引退後は西武監督として08年に日本一に輝きました。「ナベQ」の愛称で親しまれる、豪快なエピソード満載の人生を3回連載でお届けします。第1回は「アマチュア編」。(敬称略)

プロ野球

★前橋工→83年西武ドラ1

縁がないと思っていた西武からドラフト1位指名を受けた前橋工(群馬)・渡辺久信は、反対する周囲の声とは裏腹に、プロ入りの決意を固めつつあった。83年秋のことだった。

当時、日本シリーズ連覇を果たしていた広岡達朗監督率いる西武は「管理野球」といわれていた。渡辺は回想する。

「みんな『久信、やめとけ。お前には絶対無理だ。管理されるのは嫌だろう?』っていわれて『嫌です』って。周りは反対していたね」

◆渡辺久信(わたなべ・ひさのぶ)1965年(昭40)8月2日、群馬県生まれ。前橋工(群馬)で1年夏にエースとして甲子園出場。83年ドラフト1位で西武入団。「新人類」として人気を博す。96年6月11日オリックス戦でノーヒットノーラン達成。97年オフに戦力外通告を受けヤクルト入り。最多勝3度、86年勝率1位、最多三振、ベストナイン。99~01年は台湾プロ野球で選手兼任コーチとしてプレー。04年2軍投手コーチで西武復帰。05~07年は2軍監督を務め、08年から1軍監督。就任1年目に日本一となり正力松太郎賞。13年に退任し、シニアディレクター就任。19年からゼネラルマネージャー。現役通算389試合125勝110敗27セーブ、防御率3・67。185センチ、95キロ。右投げ右打ち。家族は夫人と2女。

確かに一理あった。今では珍しい1位しばりで、2位以下の指名に備えて、社会人チームから内定をもらっていた。断る選択肢もあった。

なにより、唯一縁がないと思っていた球団が西武だったから、18歳の渡辺の心中は複雑でもあった。ドラフト前、群馬・勢多郡新里村(現桐生市)の実家には、全12球団のスカウトが訪れていた。

しかし唯一渡辺本人が会っていなかったのが、西武だった。西武スカウトの突然の訪問というのもあったが、その日、渡辺は家に帰らなかった。

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