
【プロ編】ブライアントに食らってV逸「死ね」「お前のせい」/西武・渡辺GMの人生
西武のチーム作りの根幹を担う渡辺久信GM(57)。現役時代は最多勝を3度獲得するなど黄金時代を支え、ヤクルト、台湾でもプレー。引退後は西武監督として08年に日本一に輝きました。「ナベQ」の愛称で親しまれる、豪快なエピソード満載の人生を3回連載でお届けします。第2回は「プロ野球編」。(敬称略)
プロ野球
★広岡監督「今日から抑えをやれ」
麦飯と豆乳を除けば、「管理野球」は苦にならなかった。渡辺は83年ドラフト1位指名を受け西武入りを決断する。
指名直後、当時指揮を執った広岡達朗監督の「管理野球」にためらいがあったのは事実だった。「無理だろうって周りは反対していた。でも、その日のうちには『いきたい』ってなったけどね」。
食堂の茶色い麦ご飯と、冷蔵庫に入っていた豆乳だけは、受けつけなかったが、前橋工(群馬)での練習の日々に比べれば、心地いいくらいだった。
高校1年の秋に「地獄の下宿」から逃れ、野球と距離を置いたがすぐに野球漬けの日々に戻った。翌年には主将就任。3年夏の県大会では決勝戦で、押し出し四球によるサヨナラ負けという劇的幕切れを演じた。
「押し出しで負けたとき、プロ入りはもうダメかなって思ってた。管理野球って言われていたけど、高校の練習に比べてみたら楽だなと、正直思ったよ。これだったらやっていけるわって」。プロの1軍で、頭角を現すのに、そう時間はかからなかった。
1年目から初勝利を挙げ、2年目は開幕4戦4連勝。すると5月17日阪急戦前、広岡監督から監督室に呼ばれた。「ナベ、今日から抑えをやれ」。
今では考えられない即日ストッパー転向。そのままその年、11セーブをマークしている。
夏以降は先発と抑えの併用で投げた。2年目までに敗戦処理から始まって、中継ぎ、セットアッパー、抑え、そして先発、すべての役割を経験できたのは大きかった。3年目には16勝で1度目の最多勝を獲得した。
★東京モード学園に感化「新人類」
グラウンドから外に出れば「新人類」と呼ばれた。同僚で先輩の工藤公康氏とともに、ファッショナブルな格好を着こなした。
それまでの「金のネックレスにセカンドバッグ」という、当時のプロ野球選手のイメージを一新。80年代中盤、新たな価値観を持った若者として「新人類」が流行語にもなった。プロ野球界でその世代を象徴する存在だった。
「東京モード学園に仲のいい友達がいて、それに俺と工藤さんが感化されてね。でもそういう格好はしても仕事はしっかりやろうっていう雰囲気は持っていた。言いたいことは言いながら、仕事は仕事としてね」。グラウンド内外で、西武の黄金時代を担っていった。
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