【菅野智之リマスター版】2本の手記は青年が自立する軌跡 原監督への思いが変化/Ⅱ
巨人が大きく変わろうとしています。長く監督を務めた原辰徳さんが辞任し、阿部慎之助監督が誕生。大きな人事に伴って、人間関係や立ち位置にも変化が生まれています。大きな転機を迎えた3人の野球人が、日刊スポーツに残した「手記」をリマスターします。第2回は、去りゆく原監督に涙で花束贈呈した菅野智之投手。9年前のリーグ優勝時、その関係を包み隠さずに打ち明けていました。5年後、2019年にもリーグ優勝の手記を依頼しました。経年による20代の変化と成長が興味深い、2作品をお楽しみください。
プロ野球
◆菅野智之(すがの・ともゆき)1989年(平元)10月11日、相模原市生まれ。母親が原監督の実妹。東海大相模では甲子園出場なし。東海大ではリーグ通算37勝4敗。大学4年時に日本ハムからドラフト1位指名も入団拒否。1年の浪人生活を経て、12年ドラフト1位で巨人入団。最多勝3度、最優秀防御率4度、最多奪三振2度。14、20年リーグMVP。17、18年沢村賞。18年CSのヤクルト戦でノーヒットノーラン達成。186センチ、95キロ。右投げ右打ち。
自分について、こんなに考えた年はなかった。本当にいろんなことがあった。高ぶったり、シュンとしぼんだりもした。24歳とはこんなものかも知れない。目に見えない心が、見えたような気がした。
「動揺」の真の意味を、初めて理解した。5月5日、中日戦の朝だった。
先発だった。ナゴヤドームに向かうバスに乗った瞬間、電話が鳴った。監督からだった。「おーちゃん(貢さん)が、体調崩したみたいだから、東京に戻る。大丈夫だ。お前は試合を頑張れ」と言われた。
子どもじゃない。「大丈夫なはずない」って思った。「どういうこと?」っておやじに聞いたけど、詳しくは教えてくれなかった。
感じたことのない不安だった。じいちゃん。何の病気だろう。今、死んじゃったらどうしよう。動揺がボールに表れた。2回までに2点を失った。耐えるしかなかった。何とか勝って新幹線に飛び乗った。
ICUに入った。そこは命を巡る勝負の場所だった。周りの方が亡くなるのを目の当たりにした。怖くなった。目を閉じていた。「勝ったよ」とウイニングボールを渡した。握りかえしてくれた。
何度も病院に通って手を握った。最後も「ありがとう」と伝えた。人間の五感は、聴覚が最後まで生き残る。初めて知った。
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