【日野龍樹からビッグ3同期へ〈下〉】果たせなかった16年札幌の約束、祝福と悔しさ

羽生結弦選手には、同期がいます。日野龍樹さんはかつて、羽生選手、田中刑事選手とともに同世代を引っ張ってきました。3人の中で最初に競技から退いた日野さんの道のり、2人への思いを語ってくれました。上下編の下。※写真は同期3人で記念撮影した16年NHK杯、左から日野、羽生、田中(2021年12月7日掲載 所属、年齢など当時)

フィギュア

21年冬季国体 成年男子フリーの演技を終え、山本草太(左)と写真に納まる日野龍樹

21年冬季国体 成年男子フリーの演技を終え、山本草太(左)と写真に納まる日野龍樹

9歳野辺山合宿「ユヅ、うまかったな」

秋には同期の田中刑事とも連絡を取った。シーズンが本格開幕する10月のジャパン・オープンのころだった。「やっぱり気になっちゃいますよね、同期のことは。あ、ちょうどいい。ここで同期の話をしましょうか。聞きたいのは、ユヅと刑事のことですよね?」。そうおどけて、ICレコーダーに口元を近づけた。

フィギュアスケートの元全日本ジュニア王者、日野龍樹(26)が端正な顔をほころばせた。

「あの悔しさは一生、忘れられないんでしょうね」

18年の平昌オリンピック(五輪)。幼少時から日本一を争ってきた、同じ1994年度生まれの2人が同時に出場した。羽生結弦(27=ANA)は66年ぶりの2連覇を達成した。田中刑事(27=国際学園)は18位だったものの夢舞台に立った。日野は日本からテレビで応援していた。

「出場が決まったことに対しては、もちろん『おめでとう!』と思いましたし『頑張ってね!』と2人には伝えましたよ。だけど、悔しかったな。行きたかったな。これって一生、思うんでしょうね。大会中も悔しさは変わらなかったです。テレビで見ていましたけど、もちろん応援しましたけど、悔しい感情の方が勝っていた気がします。それが(21年3月まで)現役を続ける理由になったんですけどね。やめられないな、まだ頑張りたいなって思わせてくれました」

ノービス、ジュニアで日本一2度ずつの日野。五輪には届かずも、世代のトップを走ってきた。羽生、田中ら同期との出会いは小学校4年の時だった。9歳、長野・野辺山。全国有望新人発掘合宿の記憶が強烈に残っている。

「ユヅは、その前の仙台合宿の時も姿は見てるんですけど、しゃべったことはなかったので。初めて会話したのが野辺山ですね。刑事も、その時が最初です。夏に合宿があった後、毎年10月後半の全日本ノービス選手権Bで最初に優勝したのもユヅでした。詳しく言うと、僕が6位で刑事が8位。2位が鈴木潤で3位が(鈴木)拳太郎でした。僕はミスをしていないので、やることやって6位。刑事はミスをして8位。『何とも言えないなあ』って子供心に思ったことを覚えています(笑い)。それが初めて一緒に出た試合でした。ユヅ、うまかったな」

16年NHK杯 公式練習に臨む日野

16年NHK杯 公式練習に臨む日野

チャンネル争いでモメて

2人の印象も強く刻まれている。「もう17年前ですかね、あの野辺山は。元気でした、どっちも。今のイメージとは、ちょっと違うかもしれません。うん、やんちゃでした(笑い)。もっともっと元気でしたし、にぎやかでした。もちろん問題を起こす、やらかす、って意味ではないですけどね」

野辺山の宿舎「帝産ロッヂ」では別の部屋だったが、いつも一緒だった。

「生年月日順で2部屋に分かれていたんです。誕生日が11月の刑事と12月のユヅたちが同じ。2月の僕は違う部屋でした。ふふっ、懐かしいんですけど、うちらの部屋で何のテレビを見るかモメていたんですよ。『クイズ!ヘキサゴン』と(ジーコ監督時代の)サッカー日本代表の試合で、ルームメートがケンカになっちゃって。そうしたら、隣の部屋だったユヅが、その場にいたんです、いつの間にか(笑い)。自分は傍聴席的な立場だったんですけど、ユヅは『うんうん』って言い分を聞いていて。放送時間とか内容とか。で、チャンネルが決まったと思ったら、スッと帰っちゃったんですよね(笑い)。何か面白いことするやつがいるな~って思いながら見てました」

田中との思い出については「方言、強かったですね」と冗談で振り返る。「岡山なので語尾に『けん』が付くんです。でも、刑事は週末に大阪で練習するようになったので、だんだん方言が弱まっていったことを覚えてますね。岡山弁と関西弁のミックスみたいな。(お笑いコンビ)千鳥さんみたいな感じというか」と笑ったことを思い出す。

一方で、氷の上に立てば競技成績は国内外でトップクラスだった。

【全日本ノービスB(6月30日時点で満9~10歳)】

▼04年 羽生(KSC泉)1位、日野(明治神宮外苑FSC)6位、田中(倉敷FSC)8位

▼05年 日野1位、羽生(勝山フィギュアクラブ)2位、田中3位

【全日本ノービスA(満11~12歳)】

▼06年 日野1位、田中2位、羽生3位

▼07年 羽生(宮城FSC)1位、田中2位、日野(武蔵野学院)3位

【全日本ジュニア】

▼08年 羽生1位、田中6位、日野不出場

▼09年 羽生1位、日野4位、田中6位

▼10年 日野(中京大中京高)3位、田中(岡山理大付高)9位

▼11年 日野1位、田中2位

▼12年 日野1位、田中3位

▼13年 田中(倉敷芸術科学大)1位、日野(中京大)3位

※羽生(東北高)は10-11年からシニア転向

世界でも、羽生が09-10年のジュニアグランプリ(GP)ファイナルと世界ジュニア選手権の2冠を成し遂げれば、田中は11年の世界ジュニアで2位。日野は12年のジュニアGPファイナル3位と、高名な同期トリオだった。

17年全日本選手権 男子フリーの演技をする日野

17年全日本選手権 男子フリーの演技をする日野

「ユヅが優勝したり、自分が勝ったり、刑事とは上と下を行ったり来たりしたり、まさに切磋琢磨(せっさたくま)していましたね。『負けないぞ』なんて、言葉にしなくたって伝わる。勝てば、負けたアイツらはめちゃくちゃ練習する。優勝の瞬間だけは素直にうれしいけど『やったー!』とはならなくて。もっと練習されちゃうから、もっと練習しなきゃ…なんですよ。ちょっとでも気を抜いたら負けるかも…と思うと、もう気が気じゃなかったです。全国大会から名古屋に帰っても、同期のことを想像したら怖かった(笑い)」

ほかにも多士済々。振付師や指導者に転じた仲間、アイスショーの世界に飛び込んだ同学年も多かった。

「自分のラスト2シーズンの振り付けをお願いした吉野晃平も同い年です。すごく、いい振り付けをしてくれます。ショートプログラム(SP)の『オルガン付き』と、フリーの『カルメン』『トゥルーマン・ショー』を手掛けてもらいました。刑事の(19-20年の)エキシビションも振り付けしているはずですよ。晃平は長光歌子先生のチームにいます。櫛田一樹君、三宅星南君も晃平の担当です」

「プリンスアイスワールドに行ったのは中島将貴、本田宏樹、小平渓介。あと多田野康太ですね。(日本赤十字社医療センターの)救急科の医師として働いています。名大の医学部から。すごいでしょう。特に男子がすごく多かった代なんですが、みんな本当にありがたい存在でした」

そのハイライトが5年前…16年のGPシリーズNHK杯(札幌)だった。シニアでは最初で最後の国際大会そろい踏みが実現した。

「けがした(山本)草太の代打だったので、複雑な気持ちもありながら。でもGPシリーズに初めて出られる喜びと、そこに同期2人もいるという感慨深さを覚えながら、遠征の準備をした覚えがありますね」

スポーツ

木下淳Jun Kinoshita

Nagano

長野県飯田市生まれ。早大4年時にアメリカンフットボールの甲子園ボウル出場。
2004年入社。文化社会部から東北総局へ赴任し、花巻東高の大谷翔平投手や甲子園3季連続準優勝の光星学院など取材。整理部をへて13年11月からスポーツ部。
サッカー班で仙台、鹿島、東京、浦和や16年リオデジャネイロ五輪、18年W杯ロシア大会の日本代表を担当。
20年1月から五輪班。夏は東京2020大会組織委員会とフェンシング、冬は羽生結弦選手ら北京五輪のフィギュアスケートを取材。
22年4月から悲願の柔道、アメフト担当も。