【ブッチャーの真実〈4〉】レスリングテクがない…猪木に遠ざけられ、馬場に詫び入れ
日本プロレス史上最も有名な外国人レスラーが、『黒い呪術師』アブドーラ・ザ・ブッチャー(81)だ。希代のヒール(悪党)レスラーでありながら、なぜか絶大な人気を誇った。いったいブッチャーとは何者であったのか。関係者の証言をもとにたどる。第4回は「馬場と猪木のはざまで」。
プロレス
「力をぶつけ合う試合ができない」猪木
全日本プロレスから電撃移籍したアブドーラ・ザ・ブッチャーの新日本プロレスでのデビューは、1981年(昭56)6月24日、東京・蔵前国技館だった。新日本のエース外国人スタン・ハンセンとタッグを組んで、アントニオ猪木、谷津嘉章組とメインイベントで対戦した。
この試合はブッチャーの新日本デビュー、猪木との対決として注目されていたが、ファンにとってもう一つ見どころがあった。『アマレス重量級最強』と言われ、鳴り物入りで新日本に入団した76年モントリオール五輪代表の谷津嘉章の、日本デビュー戦でもあったのだ。
その期待の新星を、ブッチャーは容赦なく、徹底的に痛めつけた。開始早々に割れたビール瓶で額を切り刻んで大流血させると、リング下に落として額の傷にツメを突き立て、かみついた。ハンセンのラリアットもさく裂して谷津は戦闘不能に。団体が変わっても、凄惨(せいさん)を極めるブッチャーのプロレスに変化はなかった。
猪木との一騎打ちの期待が高まった。ところが、不思議なことにタッグマッチは組まれてもシングル対決は一向に実現しなかった。
偶然にも81年はジュニアヘビー級でタイガーマスクがセンセーショナルを巻き起こし、ハンセンは全日本に引き抜かれたものの、後にWWEで一時代を築くハルク・ホーガンというヘビー級ホープの人気が急上昇。同10月には解散した国際プロレスからラッシャー木村ら残党が参戦し、団体抗争も激化した。
人気絶頂期を迎えていた当時の新日本は、ブッチャー人気だけに依存する必要はなかった。全日本時代に比べてブッチャーの来日回数は激減し、次第に存在感も薄れていった。ただ、それだけが新日本でブッチャーが重用されなかった要因ではない。元東京スポーツ記者の柴田惣一氏(64=現プロレス解説者)は、猪木との相性を理由に挙げる。

首藤正徳Masanori Syuto
1965年、大分市生まれ。
88年入社。ボクシング、プロレス、夏冬五輪、テニス、F1、サッカー、K-1など幅広いスポーツを取材。アントニオ猪木、マイク・タイソン、有森裕子、高橋尚子、岡田武史、フィリップ・トルシエらを番記者として担当する。
五輪は92年アルベールビル冬季大会、96年アトランタ大会を現地取材。08年北京大会、12年ロンドン大会は統括デスク。21年東京大会は五輪・パラリンピック担当委員。サッカーは現場キャップとして98年W杯フランス大会、02年同日韓大会を取材。
23年1月に退社してフリーに。現在は日刊スポーツの契約ライターのほかNPO法人スポーツネットワークジャパン企画編集委員、東日本ボクシング協会の評議員などを務める