予想もしない光景に客席から悲鳴が上がった。10月24日にヤンマースタジアム長居で行われた、陸上の木南道孝記念。午後4時19分に始まった女子800メートルタイムレース2組は、最後の直線までもつれた。

先頭は1500、3000メートル日本記録保持者の田中希実(21=豊田自動織機TC)。だが、日本選手権で800メートルを制した、同学年の川田朱夏(東大阪大)が追い上げてきた。ゴールは目前。背中越しにライバルの気配を感じつつ、田中は全力で体を動かしたが、足がもつれるような格好になった。懸命に胸を前に出すと、ゴールラインへ前のめりに倒れた。

トラックに左肩を強く打ち付け、膝をすりむいた。少したって起き上がると、胸はラインを越えていた。

「『これはどうなんだろう?』って思ったんですが、負けていたとしても、あそこまで出し切って負けたらなら、最下位でも悔いがないぐらいでした。『勝ちたい』っていう思いが、本当に強かったです」

わずかに100分の6秒差で、川田に先着した。優勝記録2分6秒72だった。

序盤から見る者を驚かせた。1周目は集団からあえて離れ、最後方を走ってレースを展開した。

「800メートルの選手は2周目(のペース)が落ちるところがあるので、私は逆に長距離の強みを生かして、2周目を上げるイメージで走りました」

徐々に前を走る6人の背後に迫り、ギアを上げたのは2周目に入る直前。残り400メートルで先頭に立った。一気に川田を突き放したが、最後の直線ではリードが徐々に詰まった。今までにない感覚に陥った結果が、最後の転倒だった。

「『膝カックン』された感じで全身の力が抜けて…。長距離であそこまで急に止まるというか、完全に力が抜けるような固まり方はないかなと思いました」

昨秋の世界選手権(ドーハ)には5000メートルで決勝進出。主戦場と800メートルでは求められる要素は大きく異なる。それでも田中は「800~5000まで走れるマルチランナー」にこだわってきた。

「世界の5000メートルはラスト800メートルが、これ(現在取り組む800メートル)ぐらいになる。そういったスピードを磨きたい思いがあります」

二人三脚で歩む父の健智コーチ(49)は以前、娘の特徴について明かした。

「中学校の時も100メートルで15秒を切れなかったんじゃないですかね。17~18秒でしか走れていない。ただ、そのペースを1500メートルまでキープできました」

そんな少女が近年、スピードの面でも成長を見せていると父は分析している。

「速く走ろうと思ったら気持ちばかりが焦り、体が倒れすぎて、足が流れ始める。体幹をして、苦しい練習を繰り返すことで、惰性になることがなくなりました。『速く走りたかったらピッチを上げろ』と言い続けてきましたが、それを自分で体得し始めました。1周の強さを手に入れ始めたと思います」

「800メートルの世界」で演じた壮絶なレースを振り返り、田中は言った。

「『勝ちたい』という気持ち、かつ『自分の走りをするんだ』っていう気持ち。今回のこの感覚を忘れなければ、5000メートルにも生きてくるのかなと思います。私の場合は正直ゴール手前で足が止まって、たまたま胸がゴールを越えていただけ。最後まで走りきった川田さんの方が力は上だし、まだまだ力をつけないと…と思いました」

成長への意欲は「世界」につながる。【松本航】