楽天星野仙一監督(67)が18日、成績不振の責任を取り、今季限りでの辞任を表明した。新たに結んだ3年契約の1年目だったが、開幕後に持病の腰痛が悪化。5月末から2カ月の休養と手術を余儀なくされた。7月末に復帰後もチーム状態は上がらず、低迷していた。球団に辞意を申し入れ、この日受理された。今後はシニアディレクター(SD)のような形で球団に残る。後任は未定だが、現状では大久保博元2軍監督(47)が最有力となっている。

 三木谷オーナーとともに会見場に現れた星野監督は、穏やかな顔をしていた。約100人の報道陣でごった返す中、どこか悟ったように口を開いた。「(辞任の)直接の原因は、やはり成績。私が2カ月間も戦場を離れ、ファン、選手、球団に迷惑をかけた。しかも、こういう成績で、それが一番です」。創設9年目で初のリーグ優勝&日本一に輝いた昨季と一転、一時は借金20を超えた。低迷の責任を取り、ユニホームを脱ぐ意志を貫いた。

 辞意を固めたのは、7月25日の日本ハム戦で復帰した後のことだという。6月中旬に腰椎椎間板ヘルニアと、国指定の難病である胸椎黄色靱帯(じんたい)骨化症の手術を受けた。リハビリを経て現場に戻ったが、チームは最下位を独走。万全の体調で指揮を執れない自らの責任を痛感し「こんなことではいけないと。ひそかに今季限りで、ということを決意しました」と明かした。9月に入り、球団に辞意を伝えた。三木谷オーナーから強い慰留を受けたが、気持ちは変わらなかった。この日、正式に受理され、急きょ仙台を訪れた三木谷オーナーと会談。発表に至った。

 約15分間の会見では、さまざまなことが頭をよぎった。Bクラスが定位置だった楽天の監督に就任する前、周囲の冷ややかな反応をよそに「監督としてのロマン」と底上げを誓った。2011年の東日本大震災では「1年目から勝たないといけない」との焦りもあったが、悲願の日本一は一生の思い出となった。

 肩書は未定だが、今後も球団に残る。三木谷オーナーは「引き続き、より高いところから球団に関わっていただきたい」と話した。具体的な業務内容もこれからだが、星野監督は03年限りで阪神監督を退いた後もSDとして球団を助けた。三木谷オーナーは「球界の問題は山積みなので、それに対処できるアレンジメントにしたい。(SDよりも)より実質的な役に就いてサゼスチョン(提案)いただく。しっかりと働いていただく」と期待を寄せた。高所、大所から球界全体の問題についても対処する役職となりそうだ。

 選手には試合前、星野監督が直接辞意を伝えた。「いつまでもうるさいじいさんでいるぞ、と伝えました」と、笑って言った。ユニホームを脱いでも、楽天が常勝軍団となるために“闘将”であり続ける。【古川真弥】

 ◆星野仙一(ほしの・せんいち)1947年(昭22)1月22日、岡山県倉敷市生まれ。倉敷商から明大を経て68年ドラフト1位で中日入団。82年引退までの通算成績は500試合に登板し146勝121敗34セーブ、防御率3・60。「巨人キラー」として巨人から35勝を挙げた。74年に沢村賞を受賞。87年に中日監督に就任。中日で88、99年、阪神で03年に優勝、プロ野球史上初めてセの2球団をリーグ優勝へ導いた。優勝した03年で勇退し、シニアディレクターとしてフロント入り。08年北京五輪で日本代表監督を務めた。11年から楽天監督。