日本スピードスケートが金メダル2個を含む、史上最多5個のメダルを獲得し、冬季五輪(オリンピック)の主役に返り咲いた。80年代、黒岩彰と橋本聖子が世界で頭角を現し、長野五輪では清水宏保が日本選手初の金メダルを獲得。だが、その後は低落傾向が続き、前回ソチ大会はメダルゼロと、どん底に落ちた。日本連盟は再生を図るため、所属の枠を超えたナショナルチームを結成。オランダ人コーチを招き、V字回復につなげた。関係者の証言をもとに、日本の栄枯盛衰を振り返った。

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 81年12月の全日本スプリント選手権。高校生だった17歳の橋本聖子が初制覇の快挙を遂げた。だが、翌日の報道は10行ほどの小さいベタ記事。前年覇者で3歳上の黒岩彰は橋本に声を掛けた。「全日本を制しても、こんな記事にしかならない。人気を高めるためには、世界で勝つしかない」。2人は固く誓い合った。

 黒岩は83年世界スプリントで総合優勝。注目を浴び、翌84年サラエボ五輪は大きな期待を背負う。10位とメダルを逃したものの、スピードスケートを国民的な関心事に高めた意義は大きかった。その後も橋本とともに冬季の有力種目に押し上げる。黒岩は88年カルガリー五輪で銅メダルを獲得。92年アルベールビル五輪は橋本を含め、4個のメダルを得た。

 当時の日本には三協精機(現日本電産サンキョー)富士急、王子製紙、ミサワホーム、西武鉄道など、有力な実業団チームが存在した。当時東芝に所属した青柳徹は「世界レベルの選手も多く、それぞれの実業団、大学が小さいナショナルチームのようだった」と思い返す。各所属が競り合って実力を高める。地元開催の98年長野五輪も控え、ムードも盛り上がった。

 長野五輪では清水宏保が史上初の金メダルを勝ち取り、女子も岡崎朋美が銅メダルをつかんだ。地元で悲願達成。日本スケート界は1つの頂点に到達する。橋本、岡崎らを育てた富士急元監督の長田照正は「歯車がかみあい、良い雰囲気だった。このまま日本は上昇を続ける」と確信。その後、冬の時代を迎えるとは、だれも想像すらしていなかった。

 長野の熱が去ると、景気低迷も加わり、競技環境は悪化する。王子製紙、コクド(旧国土計画)、西武鉄道などの名門スケート部が撤退。五輪3大会出場の白幡圭史は「チーム減で、これからという選手が辞めざるを得なくなった」と言えば、岡崎も「大器晩成の子がいたかもしれない」と受け皿不足を指摘。現存する富士急の長田は「廃部が続くと、うちとしても(予算を)縮小しろとなってくる」と負の連鎖を嘆いた。

 02年ソルトレークシティー五輪は清水の銀のみ。06年トリノ五輪はメダルゼロに終わった。「長野の遺産を食いつぶした感じ」と黒岩。10年バンクーバー五輪こそ男子500メートルの長島圭一郎、加藤条治ら3個のメダル獲得も、長距離種目は壊滅状態。長期低落の傾向は変わらなかった。

 長野五輪を含めた過去の成功体験も足かせになる。「指導者の技術革新への対応が遅かった。昔ながらのトレーニング、技術理論に頼りすぎた」と清水。所属同士の切磋琢磨(せっさたくま)で、全体レベルを上げてきたが、低迷期は、ともすると足の引っ張り合いに陥る。14年ソチ五輪前、高木美帆が「合宿で集まっても、結局所属ごと。何かおかしな感じ」と嘆いた。情報共有も不足し、代表の一体感も欠いていた。

 日本連盟会長の橋本は10年バンクーバー五輪前から低迷に危機感を持ち、所属の枠を超えたナショナルチーム構想を練っていた。14年ソチ五輪はメダルゼロ。入賞も88年カルガリー五輪以降では最低4と、どん底に落ち込んだ。清水、岡崎ら元選手も改革に声を上げた。ソチの惨敗が改革を後押しする。14年7月、日本連盟はナショナルチームの体制を承認。15年5月にはヨハン・デビット氏らオランダ人コーチを招いた。

 批判の怪文書が出回るなど、改革への抵抗は強かった。国会議員を務める橋本は「文句を言う人は必ずいるけど、ここ(政治)の世界に比べればまし」と苦笑いしたが、再建へ妥協はしない。当初は反対だった黒岩も、強化副部長として新体制に加入した。

 オランダ留学など独自の道を歩んだ小平らベテラン以外のトップ選手が集結。合宿などで年間300日以上、練習はもちろん、寝食を共にした。高木は「毎日刺激をもらえる環境。やらなきゃ、どうすればいいかと常に考える」と、その効果を実感。金メダルを獲得した女子団体追い抜きのレース後は「このチームで勝ちたいという気持ちで滑った。チームジャパンを誇りに思う気持ちでいっぱい」と新体制を勝因に挙げた。

 金2、銀2、銅1と史上最多5個のメダル獲得。4年間の試行錯誤の末、日本はV字回復を成し遂げた。日本連盟はオランダ人のデビット・コーチに続投を要請し、快諾を得た。橋本はナショナルチームに若手中心のBチームをつくり、コーチのライセンス制度の創設など改革案を温める。「選手には“強くなるためのわがままなら、いくらでも聞く”と言っている」と橋本。結果を出し続け、冬の主役の座を維持していく。【取材・構成=田口潤】

(敬称略)

 ◆長田照正(おさだ・てるまさ)1949年(昭24)4月3日、山梨県山中湖村生まれ。81年から富士急監督。橋本聖子、岡崎朋美らを育成。08年から総監督。現在顧問。

 ◆黒岩彰(くろいわ・あきら)1961年(昭36)9月6日、群馬県嬬恋村生まれ。88年カルガリー五輪男子500メートル銅メダル。現在は日本スケート連盟強化副部長。

 ◆青柳徹(あおやなぎ・とおる)1968年(昭43)4月12日、北海道釧路市生まれ。五輪は88年カルガリーから98年長野まで4大会連続出場。カルガリー1500メートル5位入賞。現在日体大教授。スケート部監督。

 ◆白幡圭史(しらはた・けいじ)1973年(昭48)10月8日、北海道釧路市生まれ。専大卒。五輪は92年アルベールビル、98年長野、02年ソルトレークシティーの3大会出場。ソルトレークシティーでは1万メートル4位。現在は日本スケート連盟強化副部長。

 ◆清水宏保(しみず・ひろやす)1974年(昭49)2月27日、北海道帯広市生まれ。五輪は94年リレハンメルから06年トリノまで4大会連続出場。98年長野大会500メートルでスピードスケート初の金、1000メートル銅、02年ソルトレークシティー大会500メートル銀。

 ◆橋本聖子(はしもと・せいこ)1964年(昭39)10月5日、北海道早来町(現安平町)生まれ。冬季五輪に4度、夏季五輪も自転車で3度出場。92年アルベールビル五輪女子1500メートル銅メダル。06年から日本スケート連盟会長。

 ◆岡崎朋美(おかざき・ともみ)1971年(昭46)9月7日、北海道清里町生まれ。五輪は94年リレハンメルから10年バンクーバーまで5大会連続出場。98年長野は女子500メートル銅メダル。