その一方で、甲子園を目指す気持ちは、誰よりも強かった。プロへ行くためには、「全国区」で活躍することが近道。90年夏、イチローは初めて甲子園の土を踏んだ。

 「よく覚えてます。だだっ広い印象というか、ファウルグラウンドがやたら広くてバッターボックスまでとにかく遠かったです」

90年8月、天理戦で中前打を放つ鈴木一朗
90年8月、天理戦で中前打を放つ鈴木一朗

 「3番左翼」で出場した1回戦。相手は、優勝候補の筆頭で快速エース南竜次(元日本ハム)を擁する天理(奈良)だった。当時、イチローは16歳。さすがに浮つく気持ちを抑えられなかった。

 「雰囲気はやっぱり嫌でしたね。あんな大舞台は初めて。のまれた感じはありました。(打席で)フワフワしてました。地に足が着いてない、ってこういうことか、と思いました。なかなか経験しないし、プロに入ってからもない。甲子園だけでしたね」

 3年春にも出場したものの、初戦でエース上田佳範(元日本ハム)率いる松商学園(長野)の前に、無安打に終わった。最後の夏は、県大会決勝で東邦に敗退。ただ、イチローにとっての高校野球は、次のレベルへ進むために不可欠な期間だった。

 「高校野球は教育的な面もあるし、技術とか将来を見据えている人には大事。ただ、僕にとって、高校野球といえば、すべてを占めていた寮生活。あれよりも嫌な経験はない。今でもそれは大きな支えです」

プロを目指すために進学したイチローにとって、「個」が許されない寮生活は、苦しくもあり、後に振り返ると必要な時間だった。

 「理不尽なことしかなかった。そこを何とか耐え抜いた。何かしんどいことがあったらその当時を思い出しますし、2度とやりたくない経験として真っ先に浮かんできます。それ以外のことは浮かばないです」

 心身共に、少年から青年へ移り変わる、多感な10代後半。家族と離れ、上級生のユニホームを洗濯する日々…。それでも、イチローは、自らの信念と向き合い続けた。

 「あの時代があったから今があると思えることは、実は少ないと思います。ただ、僕の中でハッキリしているのは、高校の2年半は、数少ないと断言できる、大事な時期でした」

 中学卒業時点で、イチローの成績は、学年でもトップクラスだった。それでも15歳にして、野球に専念することを決断した。

 「中学卒業の時点で完全に学業を捨てました。だから、やるしかない、プロになる選択しか、僕にはなかったんです。実際、身内や学校の先生も全員が反対しましたし、そこに立ち向かっていきました。今思えば、よくあんな決断をしたなと思うんですけど、しちゃったんですよね、当時」

 メジャーでプレーする立場になった今でも、高校野球をはじめ若い世代への思いは、人一倍強い。96年から地元愛知で「イチロー杯争奪学童軟式野球大会」を開催しているのも、少子化などに伴う、野球人口の低下を懸念しているからにほかならない。

 「高校野球が与える影響というのは、それなしにはプロになれないし、野球文化そのものが成り立たないものだと思います」

 実際には、イチローのようにプロを目指す選手より、野球が好きがゆえに完全燃焼する選手の方が圧倒的に多い。導入が検討されているタイブレーク制や、球数制限にしても、球児の気持ちに目を向けた。

 「制限されても、そこで燃え尽きようと思っている子もいるわけですから。大半はそうでしょう。高校野球で全部出そうという人にとっては酷ですよね。そういう姿に心打たれる人たちがいるわけで…。正解はないでしょうね」

 イチローは、必要以上に高校野球を「美化」しようとはしない。プロを目指しても、地方大会の1回戦でコールド負けしても、同じ高校野球。その重さは共通で、ともにリスペクトし合うべきものでもある。ある意味で、だれよりも純粋かつ、真剣に高校野球と向き合ったのが、イチローだったのかもしれない。

(おわり)

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◆高校通算打率は練習試合、公式戦合わせて5割1厘

イチローの愛工大名電時代の成績
イチローの愛工大名電時代の成績

 イチローの甲子園出場時の成績だけを切り取ると9打数1安打になるが、高校3年間トータルでは恐るべき数字を残していた。愛工大名電野球部が保管するデータによると、高校通算打率は公式戦、練習試合を合わせ5割1厘。本人が「最後の夏は一生懸命やった」と振り返る91年夏の愛知大会は、8試合で打率6割4分3厘、7試合連続複数安打、7試合連続打点、3試合連続本塁打と手がつけられない数字が並ぶ。

 高1の秋には連続4試合で20打数18安打の固め打ちがある。高3の4月からは出場38試合中36試合で安打を放った。3年間613打席で三振は20個しか喫していない。卓越したミート力はプロでもいきなり通用した。オリックス1年目の92年から、年をまたぎ93年までウエスタン・リーグで46試合連続安打。94年にプロ野球史上初のシーズン200安打到達(210安打)と、一気に花開いた。【織田健途】