1977年(昭52)夏、福島商右腕エース三浦広之(現在55)は初戦の九州産業大付戦で3安打完封し、同校の夏初勝利を挙げた。端正なルックスから「みちのくの玉三郎」と呼ばれ、ファン、プロスカウトから熱視線を集めた。だが続く3回戦熊本工戦では、死球押し出しサヨナラ負けという悪夢が待っていた。

熊本工戦の11回裏にサヨナラの押し出し死球を与えガックリとうなだれる福島商・三浦
熊本工戦の11回裏にサヨナラの押し出し死球を与えガックリとうなだれる福島商・三浦

 延長11回裏1死満塁。窮地に追い込まれた三浦が、長い間を置いて放ったボールは打者林田のヘルメットに直撃した。

 三浦 ウエストしようと思ったら、頭に当たって、「あっ」と。その一瞬、甲子園全体がシーンとなったんです。何秒か後に、押し出しと分かると、ウワーっとなって。甲子園じゃないとああいう歓声はない。

 三塁走者がバンザイしてホームに戻るのを見ながら、三浦はうなだれた。

 福島県大会では決勝まで6戦44イニングを無失点。甲子園の初戦九産大付戦も完封し、記録を53イニングまで伸ばした。長打2本を打たれ無失点記録が途切れたのは3回。夏の初失点に福島商ナインは動揺した。三浦はこの日風邪気味だった。しかも猛暑にもかかわらず、当時の風習で水も満足に飲めない。延長に入ると既に体はバテていた。

 三浦 初戦も調子が悪くて、味方のファインプレーに助けられました。こんな形で終わって、みんなに申し訳ない気持ちでした。でも、もう少し水が飲めたらいいピッチングできたかもしれないです。

77年夏、3回戦のスコア
77年夏、3回戦のスコア

 188センチと長身で端正な顔立ち。「みちのくの玉三郎」というニックネームで呼ばれ、一躍アイドルとなった。甲子園から戻った福島駅は出迎える人であふれ、自宅には全国から段ボール1箱分のファンレターが届いた。

 三浦 県内の女子校の文化祭の招待も受けまくりました(笑い)。甲子園は人生が変わる。僕もプロを意識し始めたのは甲子園からです。みんなには頑張って行ってほしいです。行くだけの値打ちがあります。

 甲子園に出ることがずっと夢だった。幼い頃から父三郎に朝食前のランニングを課され、夕方に学校から帰ってくると父はキャッチャーミットを持って待っていた。

 三浦 完全に「巨人の星」です。小学校の頃に三沢、磐城が準優勝して。その度に、おやじが「次はお前だ」と。「東北に優勝旗をもってこい」と、ずっと言われていたんです。僕は(優勝を)使命のように感じて甲子園に行ったんですが、いかんせん1人が思ってても出来ない。甲子園ではやってみたら力の差はないと感じました。問題はハート。勝ちたいと全員が思う。気持ちが強いチームが優勝するのだと思います。

 高卒で阪急にドラフト2位で入団。1年目にデビューから4連勝するなど活躍し、83年に引退した。その後ゴルファーに転向。大阪市内のゴルフスクールで指導を続けてきたが、今また野球への思いが湧き上がっている。

 三浦 東日本大震災の後、自分は野球のことでしか福島に恩返しできないと思いました。もともと監督になり甲子園に行くのが夢だったので、13年に第1期生として(プロの学生野球)資格を取りました。呼ばれれば、どこでも教えに行きたい。やっぱり、自分で白河の関を越えたいです。(敬称略)【高場泉穂】