巨人は20日、OBで通算141勝右腕、加藤初(かとう・はじめ)氏が今月11日午後、直腸がんのため静岡県内の病院で死去していたことを発表した。66歳だった。加藤氏は1972年(昭47)に大昭和製紙(現日本製紙)から西鉄(現西武)に入団。1年目に17勝16敗で新人王に輝き、76年にトレードで巨人へ移籍した。同年4月にノーヒットノーランを達成し、シーズン15勝4敗で前年最下位からの優勝に貢献した。ピンチにも顔色を変えず投げ抜くことから「鉄仮面」と呼ばれた名投手だった。

 寡黙に投げ続ける姿で「鉄仮面」と呼ばれ親しまれた加藤氏が、静かに息を引き取った。11日午後、直腸がんのため10月下旬から入院していた静岡県内の病院で死去した。66歳だった。葬儀、告別式は妻の和江(かずえ)さんを喪主として、既に執り行われた。

 約5年間に及んだ闘病生活を闘い抜いた。韓国SKの投手コーチだった11年、体調不良により退団を決断した。帰国して横浜市内の病院で検査を受けた結果、直腸がんが見つかった。既にステージは4に達し、余命は半年と告げられた。韓国へ渡った05年から体調不良が続き、体重は渡韓前から10キロ以上減っていたという。和江さんは「普段は何も言わない人が『つらい』と。相当に苦しかったんだと思います」と振り返る。

 もう1度グラウンドへ戻りたいという強い思いが、病床の体を支えた。抗がん剤治療を始め、14年には手術を決意。完治には至らなかったが、14年初夏に息子2人の住む静岡へ移住して治療を継続した。ベッドで過ごす時間が増え、意識が不確かな時も「もう練習の時間だから、用意をして球場に行かなくては」と服を着替えようとしたという。和江さんは「野球はやめたんだよと言っても、本人の中ではプレーしているようでした。意識がもうろうとした時でも『韓国に戻ってコーチをやるんだ』と。戻りたかったんだと思います。最後まで野球人でした」と話す。

 がんは4カ所に転移し、パーキンソン病も併発していた。今年に入り入退院の回数が増え、10月下旬に入院したまま帰らぬ人となった。だが余命半年の宣告にも諦めず、約5年間を全力で生き抜いた。現役時代にも、選手生命を脅かすほどの故障を克服。33歳だった83年6月、右肩の血行障害に見舞われた。右腕が胸より高く上げられなくなり、日常生活にも苦労して手術を決断。太ももの血管を右肩に移植する球界初のケースだったというが、9月末に復帰して40歳まで19年間現役を続けた。現役終盤はコーチを兼任し、引退後は韓国、台湾でもコーチを務め基本の徹底を説いた。

 球団発表のあった20日は加藤氏の67回目の誕生日だった。静岡県内の自宅には、妻、2人の息子夫婦や孫ら親族が集まり、静かに誕生日を祝ったという。

 ◆加藤初(かとう・はじめ)1949年(昭24)12月20日生まれ、静岡県出身。吉原商から亜大(中退)大昭和製紙を経て71年ドラフト外で西鉄へ入団。“黒い霧事件”と呼ばれた八百長問題で主力投手が退団した直後で、1年目からフル回転。72年に17勝を挙げ新人王を獲得した。76年に関本、玉井との2対2の交換トレードで伊原とともに巨人へ移籍。移籍1年目の4月18日広島戦でノーヒットノーランを達成し、この年15勝を挙げ長嶋巨人の初優勝に貢献。89、90年は兼任コーチとなり、90年に現役引退。95~99、01年に西武コーチ。その後は台湾、韓国でもコーチを務めた。通算成績は490試合で141勝113敗、22セーブ、防御率3・50。右投げ右打ち。