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江藤慎一さん死去、中日、ロッテで活躍
中日、ロッテなどで強打者として活躍、史上ただ1人両リーグで首位打者に輝いた江藤慎一氏が28日午後3時38分、肝臓がんのため都内の病院で死去した。70歳だった。気迫をむきだしにするプレーから「闘将」と呼ばれ、75年には太平洋(現西武)で兼任監督も務めた。中日時代の64、65年には2年連続して首位打者となり、巨人王貞治(現ソフトバンク監督)の3冠王を阻止。71年にはロッテで首位打者を獲得した。葬儀・告別式は3月5日午前10時から東京都品川区西五反田5の32の20、桐ケ谷斎場で行われる。
「闘将」と呼ばれた江藤氏も病魔の前に力尽きた。5年近い闘病生活に耐えてきた。実弟の江藤省三氏が見舞った際には、色紙に得意だったダルマの絵を添え「七転び八起き」と書いて贈ったという。そんな不屈の精神の持ち主も、28日午後、ついに帰らぬ人になった。
59年に社会人の日鉄二瀬からテスト生として中日入りした。捕手ながら「一塁もできます」と出場のチャンスをつかんで、打率2割8分1厘、15本塁打。1年目からフル試合出場を果たした。同期の王貞治、1年前には長嶋茂雄が巨人入りしていた。そんな時代にプロ野球を代表する強打者となった。
64、65年には3冠王に挑んだ王の前に大きく立ちはだかった。65年にはデッドヒートを演じ、最後の2試合で5割の数字を残した江藤が首位打者を獲得した。打率3割3分6厘。王は2年連続して本塁打、打点のタイトルをとりながら、打率は2度とも2位だった。その当時、江藤は「絶対に(首位打者は)オレがとる」と公言、その言葉通りの結果を出した。
生活ぶりも豪快で、酒のにおいをさせながら球場入りすることもあったという。大洋(現横浜)時代を知る関係者は「当時の遠征は旅館でしたが、朝起きると江藤さんが帰ってきてヤカンの水をがぶ飲みしていたのを思い出します」と話した。その一方で、バットを振ることは忘れなかった。実弟の省三氏も「いくら飲んでもバットだけは離さなかった。ガレージでよく振っていました」と当時を語った。
豪快なイメージの一方で細やかな配慮もできる人だった。山下大輔氏(日刊スポーツ評論家)は大洋に入団した74年、1年間だけ江藤氏と一緒にプレー。「こっちは新人で、向こうはスーパースター。そんな関係なのに、ダイスケ、ダイスケといってかわいがってもらいました」と振り返った。退団後もOB会で球団に対して「もっとOBを大事にしないといけない」と苦言を呈することもあった。
省三氏がロッテのコーチに就任した際(95年)には、こんな言葉を送った。「人生の成功は十分の一」。100%など無理、その10分の1で十分、納得しなさいという意味だった。常に全力投球、フルスイングで試合に臨んだ人には意外な言葉といえるかもしれない。あのプレースタイルでも、まだ10分の1だったのだろうか。「昭和の強打者」がまた1人いなくなった。
[2008年2月29日9時37分 紙面から]
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