西日本豪雨は9日までに各地で被害が拡大し、死者は12府県で計126人に上った。安否不明者も岡山県倉敷市や広島市などで大幅に増えて6府県86人となり、死者・行方不明者299人を出した1982年(昭57)の長崎大水害以降、平成で最悪の被害となった。約3割が浸水した倉敷市真備町地区では9日、ポンプ車などによる排水が進められ、複数の遺体が発見された。水の中から姿を現した変わり果てた町では、行方の分からない家族を探す人たちの姿も見られた。

 4500戸以上が浸水した倉敷市真備町地区。東側の高梁川、南側の小田川の合流地点に広がる集落を貫くように北から南に末政川が流れ、小田川に注ぐ。民家と水田の広がるのどかな風景は、豪雨で一変した。

 川底が周囲の土地より高い“天井川”として知られる末政川の決壊地点。高さ10メートル近い両岸の護岸が20メートル以上にわたって崩れており、9日になっても、周囲に濁流が流れ出していた。切れた土手の端に、女性が立ち尽くし、泣いていた。「あそこが家でした」。指さした先には決壊した土手から流れ出す泥水が、新しい茶色い川のように流れていた。母屋が流され、母の行方が分からないという。

 近くに住む住民によると、この土手が決壊したのは、6日の深夜とみられる。午後11時半過ぎ、近くのアルミ工場が爆発。爆発音を聞いて外の様子を確認した40代の男性は「末政川が逆流して、土手の上の道路の30センチほど下まで水位が上がっていた」。やがて、末政川の西側に泥水があふれ出し、川の下を交差して流れる水路に「ザーッ」と滝のように流れ落ち始めたという。

 6日深夜、男性が家族を連れ、車で避難した時にはすでに道路の冠水も始まっていた。他の住民によると、その後7日朝までの間に、西側の護岸が決壊。続けて東側の護岸も決壊した。

 変わり果てた集落の様子を土手の上から見渡していた別の男性は「同級生の家がない。集落の組長の家もない」と目を赤くした。友人の家が並んでいたという辺りには、幅20メートル以上の泥の水面が広がり、粉々になった木材や屋根が岸辺に重なるように流れ着いていた。近くの女性は「水道管も下水管もみんなやられた。復旧といってもどこからやればいいのか」と話した。

 周辺の道路には川砂が数メートルの山を作り、流れ着いた屋根なども道をふさぎ、片付けに入る住民の車の通行もままならない。泥が白く乾き始めると、灯油のような鼻を突く臭いの土ぼこりが舞い上がり、口の中がざらついた。車が横倒しに沈んだ水田を眺めていた農家の男性は「ここら一帯、田んぼに油が入ってる。農機も水につかって全部壊れた。もうコメは作れない」と話した。【清水優】