【白球はひとつ〈2〉】日本国籍を取得すべきか…家族で話し合う日々

「もし悩んでいる人がいれば『君たちは、何も悪くない』と言いたい。両親の出会いがあったからこそ、日本で生まれた。何も引け目を感じることはない。いつか、現状をしっかりと受け入れられる日が来る。何か言われるんであれば、その人が、理解できていないんだと思えばいい」――森本稀哲

(2016年7月21日掲載、所属、年齢などは当時)

その他野球

帝京高(東京)に進んだ森本稀哲氏(35=元日本ハム外野手)は、自身の出生に理解を示してくれた前田三夫監督(67)に鍛えられ頭角を現していく。強肩強打の全国区となることで、新たな岐路に立った。

1998年8月、全国高校野球選手権大会3回戦浜田戦で2ランを放った森本稀哲(右から2人目)

1998年8月、全国高校野球選手権大会3回戦浜田戦で2ランを放った森本稀哲(右から2人目)

両国の壁

高校ジャパンの代表候補に名を連ねると、家族間で会議になった。日本国籍を取得すべきか否か。

「まさか自分がオールジャパンなんて…。僕は『日本で住んでいく』と思っていた。外国人登録証を持ち歩くのも、不便で大変だった。でも家族の抵抗って、ものすごく、あったんです。ウチの家族としては、韓国人に関して、強い気持ちがある方だった」

正直な心の比重では、最高峰でプレーしたい気持ちが上回っている。日本で、仲間と野球に出会った。感謝と愛着もある。

両親は基本的に反対。祖父母は「日本で生まれて、生活している。本人の思ったようにやらせればいいのでは」と言ってくれた。なかなか結論を出せず、結局、代表メンバーからも漏れた。

1998年12月、新入団選手発表で大社義規オーナー、上田利治監督(前列右から)と記念撮影する後列左から実松一成、建山義紀、立石尚行、森本稀哲、阿久根鋼吉、伊藤剛

1998年12月、新入団選手発表で大社義規オーナー、上田利治監督(前列右から)と記念撮影する後列左から実松一成、建山義紀、立石尚行、森本稀哲、阿久根鋼吉、伊藤剛

国を代表して野球をしたい。憧れはプロに入っても変わらず、強くなっていく。

1999年入社。整理部―2004年の秋から野球部。担当歴は横浜(現DeNA)―巨人―楽天―巨人。
遊軍、デスクを経て、現在はデジタル戦略室勤務。
好きな取材対象は投手、職人、年の離れた人生の先輩。好きな題材は野球を通した人間関係、カテゴリーはコラム。
趣味は朝サウナ、子どもと遊ぶこと、PUNPEEを聴くこと。