【ラグビー激動の1995〈1〉】むせび泣いた堀越正己 震災と連覇背負った神鋼主将

日本ラグビー界において1995年度は激動のシーズンだった。日本代表はW杯でニュージーランドに147失点の惨敗。暗黒の時代だった。阪神淡路大震災で被災した神戸製鋼は、敗れずして連覇が7で途絶えた。当時の選手の生きざまを描く6回連載。

第1回は神戸製鋼SH堀越正己(現立正大監督)。(敬称略)

ラグビー

 

早稲田大-神戸製鋼、91、95年W杯出場、立正大監督

早大時代に日本代表入り。91、95年とW杯には2度出場した

早大時代に日本代表入り。91、95年とW杯には2度出場した

堀越正己(ほりこし・まさみ)

1968年(昭43)11月27日、埼玉県熊谷市生まれ。熊谷東中では野球部で投手。熊谷工からラグビーを始め花園では4強2度、準優勝1度。早稲田大1年の87年度に日本選手権優勝。全国大学選手権は1、3年時に制覇。大学ラグビー全盛期で「雪の早明戦」など多くの名勝負を繰り広げた。大学時代に日本代表入りしW杯は91、95年大会に出場。91年に神戸製鋼入りし4~7連覇に貢献した。98年度を最後に神戸製鋼を退社し、99年に立正大監督に就任。

前人未踏の8連覇へと進んでいた当時、ロッカールーム内で笑顔を見せる(「神戸製鋼ラグビー部70年の軌跡」より)

前人未踏の8連覇へと進んでいた当時、ロッカールーム内で笑顔を見せる(「神戸製鋼ラグビー部70年の軌跡」より)

当時26歳、震災の年に託された主将の重責

今から28年前、まだ26歳だった神戸製鋼の主将は54歳になっていた。

面影は変わらない。

1980年代後半から90年代にかけて、スクラムハーフ(SH)といえば堀越だった。

ラグビーに憧れる少年は皆、あのダイビングパスをまねた。

国立競技場や秩父宮ラグビー場は、超満員の観客で埋まる。

そんな時代の紛れもないスターだった。

日本選手権で最後に学生が頂点に立つのは、1987年度の早稲田である。

東芝府中に22-16。

SHに堀越、WTBは今泉清に桑島靖明、両CTBは今駒憲二に藤掛三男、NO8は清宮克幸というメンバーだった。

東芝府中戦でパスを出す早大時代の堀越。華麗なダイビングパスをラグビー少年は皆まねた

東芝府中戦でパスを出す早大時代の堀越。華麗なダイビングパスをラグビー少年は皆まねた

卒業後、堀越は神戸製鋼に進み、主将を任されたのは7連覇を達成した直後のこと。

時を同じくして、阪神淡路大震災が発生する。

神戸市東灘区の10階建ての社宅は、1階が倒壊。3階の自宅は大きくゆがみ、鉄製の扉が開かずに里佳夫人が閉じ込められた。

長い時が流れた今でも、記憶が薄れることはない。

「キッチンと寝室だけの小さな部屋でした。

もし僕がいつものように自宅で寝ていたら、下敷きになっていたと思います。

7連覇を飾った2日後で、僕は休みを頂いて熊谷(埼玉)の実家に帰っていた。

社宅には妻だけが残っていて、隣が杉本さん(慎治=伏見工~同志社大)でした。

ゴミ当番を代わってもらっていたので、妻が家にいるのを杉本さんは知っていた。

震災が起きて、逃げようとしても鉄の扉が開かない。

真っ暗闇の中で『大丈夫か!』と扉をたたいて呼んでくださったんです。

玄関の横の窓ガラスを割って、救出してくれた。

逃げる時に足の裏を切っただけで助かりました」

1階が倒壊した神戸製鋼本社本館(「神戸製鋼ラグビー部70年の軌跡」より)

1階が倒壊した神戸製鋼本社本館(「神戸製鋼ラグビー部70年の軌跡」より)

負けずして止まった連覇の道

あの日から、苦難の道のりが始まった。

1年後-。

1996年1月28日、東京・秩父宮ラグビー場。

全国社会人大会の決勝トーナメント1回戦で、突如、連覇の道は断たれた。

サントリーに20-20。

勝利をほぼ手中にしていたかに思われた後半ロスタイム。神戸製鋼は自陣で反則、土壇場でPGを決められ同点とされる。

トライ数差で次に進んだのは、サントリーだった。

負けてはいない。

ただ、勝てなかった。

96年1月28日、サントリーと引き分け8連覇の道は断たれた

96年1月28日、サントリーと引き分け8連覇の道は断たれた

前人未到の8連覇は道半ばで、敗れずして消えた。

「やっと終わった…」

それが、素直な思いだった。

「次に進めない悔しさはありました。

でもプレッシャーから解放されて、ようやく終わったという。そんな思いでした。

今思えば、安堵(あんど)感の方が強かったのかも知れません」

どれほどの重圧がのしかかっていたことだろう。

まだ神戸の街は深い傷痕が残されていた。

住む家や、家族を失った人も身近にいた。

言い訳はできなかった。

本当の悔しさに襲われるのは、後になってからである。

連覇が途切れ、神戸に戻ってから開かれたミーティング。

その席で、堀越は男泣きした。

「頑張るので、俺に付いてきて下さい」

涙を流しながら、全部員の前でそう、訴えかけた。

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編集委員

益子浩一Koichi Mashiko

Ibaraki

茨城県日立市生まれ。京都産業大から2000年大阪本社に入社。
3年間の整理部(内勤)生活を経て2003年にプロ野球阪神タイガース担当。記者1年目で星野阪神の18年ぶりリーグ制覇の現場に居合わせた。
2004年からサッカーとラグビーを担当。サッカーの日本代表担当として本田圭佑、香川真司、大久保嘉人らを長く追いかけ、W杯は2010年南アフリカ大会、2014年ブラジル大会、ラグビーW杯はカーワンジャパンの2011年ニュージーランド大会を現地で取材。2017年からゴルフ担当で渋野日向子、河本結と力(りき)の姉弟はアマチュアの頃から取材した。2019年末から報道部デスク。
大久保嘉人氏の自伝「情熱を貫く」(朝日新聞出版)を編集協力、著書に「伏見工業伝説」(文芸春秋)がある。