【激動の1995〈2〉】「夢はずっと夢のままかと」サントリー中村直人、その生き様
7連覇中の神戸製鋼を止めたのはサントリーだった。その3年前に入れ替え戦に回っていた男たちは、いかにして絶対王者の道を閉ざすのか。当時の選手の生き様を描く連載の第2回。元日本代表プロップの中村直人を京都に訪ねた(敬称略)。
ラグビー
99年平尾JAPANでW杯出場
中村直人(なかむら・なおと)
1969年(昭44)1月18日、京都市生まれ。京都・高野中までは柔道部で、洛北高からラグビーを始める。花園出場はないが、伏見工業の山口良治監督が率いた京都代表で山梨国体8強入り。同志社から92年にサントリー入社。98年5月のパシフィックリム選手権・カナダ戦で日本代表初キャップを獲得し、平尾誠二監督率いた99年W杯に出場。02年に現役引退。現在は京都市内で酒類販売店「なおかつ」の代表取締役社長。
「あの年に僕の人生が変わりました」
あれから四半世紀以上の月日が流れた。
サントリーのスクラムの屋台骨を担ったプロップ(3番)の中村直人は今、京都で家業の酒屋を継ぐ。
賀茂川と高野川が交わり、鴨川となる三角州から北東へ歩いて10分ほどにある事務所を訪ねた。
その日、京都市内の最高気温は37度まで上昇。ニュースでは今年一番の暑さになるだろうと伝えていた。
「あの年に僕の人生が変わりました」
記憶をたどる長いインタビューは、そんな言葉から始まった。
神鋼8連覇への期待、満員の秩父宮
1996年(平8)1月28日、東京・秩父宮ラグビー場。
全国社会人大会の1回戦、サントリーの相手は神戸製鋼だった。
阪神淡路大震災から1年が過ぎ、復興とともに歩む神戸の8連覇を期待するファンで客席はギッシリと埋まった。
サントリーのフォワード第1列は佐藤豪一(26=明治大)、坂田正彰(23=法政大)、中村直人(27=同志社大)。(年齢は当時)
まだ戦術的な交代が認められていなかった時代。
開始すぐにあったスクラムで、アクシデントが起きる。
「確かファーストスクラムだったと思います。
豪一が足を痛めて退場してしまうんです」
厳しい試合になるだろう-。それが大方の見方だった。
ただ、それを覆す覚悟のようなものがサントリーの選手に芽生えていた。
交代で入ったのは中里豊(31)。公立の進学校である千葉東から筑波大に進み、努力ではい上がってきたベテランであった。
中心選手が抜けた穴を感じさせず、最前列でスクラムを支え、セットプレーは安定。自信を持つモールを起点に攻撃を組み立てた。
同志社からサントリーの門をたたいた中村にとって、背中を見てきた先輩の1人だった。
「日々、黙々と練習をするタイプの人でした。
中里さんのスクラムは基本に忠実なんです。
フィールドプレーでもいぶし銀の活躍をされた。
それがチームにとって、ハマッたんだと思います」
フォワードの奮闘がジワリ、ジワリと神戸製鋼の出足の鋭さを鈍らせていた。
ただ、まだ誰も、歴史が変わる試合になろうとは気付いてもいなかった。
先輩の死「必死に走ってもしんどくなかった」
中学まで柔道をしていた中村が、本格的にラグビーを始めたのは京都の洛北高1年からだった。
洛北から同志社に進んだ父直勝と同じ道を歩むことになる。
「ラグビーをやるようになった頃、新日鉄釜石の黄金時代があったんです。
テレビのドキュメンタリーで釜石の7連覇をやっていて、『カッコええなあ』と思っていました。
同じ時期の同志社の3連覇とともに憧れていた」
柔道で体は鍛えられていたから、1年から1番プロップで試合に出ていた。
この時、人生を変える出来事が起きる。
あの年もまた、暑い夏だった。
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茨城県日立市生まれ。京都産業大から2000年大阪本社に入社。
3年間の整理部(内勤)生活を経て2003年にプロ野球阪神タイガース担当。記者1年目で星野阪神の18年ぶりリーグ制覇の現場に居合わせた。
2004年からサッカーとラグビーを担当。サッカーの日本代表担当として本田圭佑、香川真司、大久保嘉人らを長く追いかけ、W杯は2010年南アフリカ大会、2014年ブラジル大会、ラグビーW杯はカーワンジャパンの2011年ニュージーランド大会を現地で取材。2017年からゴルフ担当で渋野日向子、河本結と力(りき)の姉弟はアマチュアの頃から取材した。2019年末から報道部デスク。
大久保嘉人氏の自伝「情熱を貫く」(朝日新聞出版)を編集協力、著書に「伏見工業伝説」(文芸春秋)がある。
