ラグビーの19年ワールドカップ(W杯)日本大会開幕まで1年を切った。日本代表が史上初の8強入りを目指すビッグイベントに向け、日刊スポーツでは「ラグビーW杯がやってくる」と題し、毎週水曜日付で連載する。第1回のテーマは、開催都市の1つに選ばれた岩手県釜石市。70年代後半から新日鉄釜石が日本選手権7連覇を果たし、11年3月の東日本大震災で甚大な被害を受けたラグビーの町。W杯を復興のシンボルに据え、地元での開催にこぎつけた、人口3万4000人の「小さな町の大きな挑戦」に迫った。

18年8月、ヤマハ発動機とのメモリアルマッチ後、大漁旗を振り釜石シーウェイブスをたたえる観衆
18年8月、ヤマハ発動機とのメモリアルマッチ後、大漁旗を振り釜石シーウェイブスをたたえる観衆

赤いジャージーが、新装の釜石鵜住居復興スタジアムを駆け抜けた。「伝説のチーム」新日鉄釜石が8月19日、神戸製鋼の力を借りてよみがえった。ほとんど60歳オーバー、パスは山なり、走れば足がもつれた。それでも、かつての「鉄人」たちの勇姿に満員のスタンドが沸いた。無数の大漁旗が揺れた。

「鉄と魚の町」に「ラグビー」が加わったのは80年代だった。ラグビー人気の高まりとともに、新日鉄釜石が達成した日本選手権7連覇。当時の同選手権は超ビッグイベント。毎年1月15日は成人式を終えた振り袖姿のファンが国立に駆けつけた。かり出された記者の数は、プロ野球の日本シリーズ以上だった。「すごい人気だったね」。松尾雄治氏(64)は懐かしんだ。

82年1月、第19回ラグビー日本選手権 新日鉄釜石対明大 新日鉄釜石・松尾雄治は、そのまま40メートルを独走しトライ
82年1月、第19回ラグビー日本選手権 新日鉄釜石対明大 新日鉄釜石・松尾雄治は、そのまま40メートルを独走しトライ

V7時代、取材で釜石を訪れた。東北新幹線はまだなく、上野から夜行列車だった。花巻で乗り換え、朝早く釜石に着いた。漁業が中心の港町。早朝港に帰る漁師のために、パチンコ店は朝から開いていた。

ラグビー部の練習後、プロップの洞口孝治主将(99年に急逝)らと町に出た。次々と声がかかる。「洞さん、次も頑張ってね」「応援してますよ」…。まだJリーグはなく「地域密着」も一般的ではなかった。しかし、確かに釜石にラグビーは「密着」していた。

釜石工、宮古工など東北の高卒選手を鍛え、松尾氏ら数少ない大卒選手が「指令役」となった。作られた「スター軍団」ではない。松尾氏以外に派手さもなかった。それでも黙々とボールを追い、鉄の結束で勝った。そんなチームカラーが三陸の港町らしかった。

ただ、85年の7連覇を最後に松尾氏が引退した後は低迷した。製鉄所の高炉は89年に停止。01年にはクラブ化して釜石シーウェイブスとなった。そして11年には東日本大震災。1000人以上の犠牲者を出し、町は大打撃を負った。30年以上前の栄光。来場した中学生は「ラグビーの町と言っても、ピンと来ない」と正直な胸の内を明かした。

松尾氏、石山次郎氏らを中心に旗揚げした「スクラム釜石」が、W杯開催の夢を実現させた。スタジアムも完成した。多くの来賓を迎え、華々しく行われたオープンイベント。しかし、レジェンドたちの表情は意外なほど厳しかった。

W杯釜石誘致を誰よりも先に提案した石山氏は「やっとここまで」と喜びながらも「まだ通過点。これからが大変」と言った。スタジアムの脇には、仮設住宅がある。反対の声は今も根強い。スタジアムの後利用も、メドは立っていない。それでも、1歩踏み出した。後戻りできないからこそ「やることは多い」と坂下功正氏は言った。

松尾氏は「ラグビーでケガをしたら他の部分を鍛えて、より強くなる。震災を例えるのは不謹慎だけど、より強い釜石になれればいい」と話した。三陸の港町に「ラグビーの町」が誕生した奇跡。再び奇跡を起こす起爆剤として、W杯がやってくる。【荻島弘一】

釜石市の試合会場・鵜住居復興スタジアムの周辺地図
釜石市の試合会場・鵜住居復興スタジアムの周辺地図

釜石市で開催される試合の日程
釜石市で開催される試合の日程

◆釜石市 岩手県南東部に位置し、国内有数のリアス式海岸を持つ港町。1937年(昭12)に釜石町が市制施行して誕生した。面積は約440平方キロで、東京23区の3分の2強。製鉄業で栄え、最盛期の人口は9万人以上だったが、現在は3万4000人。野田武則市長。