各世代の日本代表中心選手がワールドカップ(W杯)を振り返るシリーズ「俺のW杯」。最終回は、07年大会から3大会連続で出場し、代表キャップ歴代最多98を誇る、ロック大野均(40=東芝)。日本ラグビー界の「鉄人」が、現役を続けるモチベーションと語るW杯の思い出を語った。

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無心で走り続けた80分間。会場中に響き渡るジャパンコールが背中を押したが、フィジーの背中はわずかに届かず。大野は試合終了後、ホテルに帰ると異変を感じた。点滴の針を腕に刺し、ベッドに横たわり、見上げた天井。脱水症状で7キロ落ちた体重。極限まで追い込んだ。試合には負けたが、妙な達成感を覚えた。

07年大会のフィジー戦で、初めてW杯のピッチに立った。初戦のオーストラリア戦は出場せずに、満を持して臨んだ2試合目。初の大舞台に浮足立つどころか、絶対勝利への責任感と覚悟があった。脱水症状にもかかわらず、なぜか動き続ける自分の体。「ワールドカップはどこかでリミッターを外させてくれる」。29歳の体力が底なし沼になった。

1勝もできないまま、最終戦のカナダ戦で引き分けて14試合ぶりに敗戦を逃れた。その時に込み上げてきた達成感は、帰国後に消え去った。「勝ってたらもっと日本ラグビーにとっていいことが起こっていた。ワールドカップの借りはワールドカップでしか返せない。次も絶対出てやろう」。燃え尽きたものが、再び燃え始めた。

11年ニュージーランド大会を飛び越えて、その時はきた。舞台は15年イングランド大会。11年も最終戦のカナダ戦で2大会連続ドローが精いっぱいだった日本が、初戦の南アフリカ戦で史上最大の番狂わせを演じた。29-32で迎えたラストワンプレー。敵陣でペナルティーをもらうと、同点狙いのエディー・ジョーンズHCのペナルティーゴールの指示を無視してスクラムを選択。先発出場し途中交代でベンチから見守る大野には、試合を通してスクラムで勝てる自信があった。そして逆転のトライ。初めて聞いた勝利のホイッスル。地響きのような大歓声で揺れるブライトン競技場。「日本代表で歴史をつくろう、変えようというキーワードでやってきた。これが歴史を変えることなんだな」。2大会連続同点の借りを歴史的勝利で返した。

15年大会ではもう1つテーマがあった。すでに19年W杯が日本で開催されることが決まっていた。「何かしら結果を残さないと19年ワールドカップの成功はあり得ない」。決勝トーナメント進出はかなわなかったが、日本史上最多の3勝を果たしてバトンをつないだ。

いつ、どこで聞いたかは覚えていない。映画の宣伝のセリフなのは確かだった。「灰になってもまだ燃える」。以来、自分の胸に刻み続けている言葉だ。「ワールドカップがあるからこそ、ワールドカップが終わっても次を見させてくれる。灰になってもまだ燃やさせてくれる」。W杯がある限り、ラグビーへの熱は今も燃え続けている。【佐々木隆史】

◆大野均(おおの・ひとし)1978年(昭53)5月6日、福島県郡山市生まれ。清陵情報高までは野球部で外野手。日大工学部に入学後、先輩から勧誘されてラグビーを開始。日本代表歴代最多の98キャップ。趣味は酒。好きな食べ物はケンタッキーフライドチキン。192センチ、105キロ。血液型O。