71年11月、本紙インタビューに答える明大ラグビー部の北島忠治監督
71年11月、本紙インタビューに答える明大ラグビー部の北島忠治監督

大学ラグビーに焦点を当てるシリーズ第2回は、大学選手権優勝13回を誇る明大。1929年から67年間チームを率い、96年に亡くなった北島忠治監督の教えのもと、松尾雄治、吉田義人、元木由記雄ら多くの日本代表選手を輩出。「前へ」の精神は、現在も、哲学として受け継がれている。

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2019年1月12日、紫紺のジャージーが、22年ぶりに日本一の座に返り咲いた。名門を復活に導いた田中澄憲監督(43)は、昨春のミーティングで、北島監督の遺訓「前へ」の意味を選手に説いた。「前へはプレーだけではない。生き方であり、逃げない姿勢。それが明治ラグビーだ」-。

大学選手権優勝13回。70年代後半から90年代にかけ、早大、慶大との激闘でファンを熱狂させ、日本ラグビーに大きな影響を与えた、「前へ」の精神。在学中の85年に日本一を経験し、11年W杯で日本代表GMを務めた太田治氏(54=日本協会トップリーグ部長)は、その本質はプレーでなく精神面にあると説明する。

「慶大の『魂のタックル』、早大の『接近、連続、展開』は戦術的だが、『前へ』は精神的なもの。北島先生が言っていたのは、勝利より、逃げない姿勢。そして、仲間のために体を張り、ルールを守ること。4年間をかけて、その精神を自分なりにかみ砕き、身につける。その哲学のようなものが明治には存在する」

91、95年と2度のW杯出場を果たすなど、日本代表としても活躍した太田氏。北島監督の教えは、卒業後も自らの指針になっていたという。直前で代表から落選した第1回W杯、ニュージーランドを相手に145失点を経験した第3回W杯。失意の際に立ち返った先も、恩師の考えだった。

「自分にとっては基準であり、軸。戻る場所があるから、きつい時でも向かっている方向を確認することができる。『前へ』の根底にあるのは、立ち止まりながらも、進んでいくことだと自分は解釈している」

北島監督が亡くなった96年度の優勝を最後に、明大は長い低迷期に入った。3年時に、その優勝を経験した田中監督は、18年に指揮官に就任した際、過去の歴史の中に、復活への重要なヒントがあると考えた。

「早稲田さんが、どうやって相手に勝つかを考えるチームだとすれば、明治は自分たちはこれで勝つというチーム。困難から逃げない姿勢もそうだし、『重戦車』もそう。低迷期は、そういう、こだわり、哲学が薄らいでいたように思う」

9月開幕のW杯に向けた日本代表候補で明大出身はSO田村、CTB梶村の2人。田中監督は、指導者として「明治らしさ」をまとったより多くの選手が、将来、日本代表として活躍する姿を期待している。

「1から10まで教えない自主性も明治の良さ。だから、他と比べて個性の強い選手が生まれやすい。人間的にも魅力があって、選手としてキャラクターがある。そんな選手が、ここで育ち、代表として世界で活躍してくれたらうれしい」

創部96年-。紫紺の意味を理解した選手たちが、また新たな歴史をつくっていく。【奥山将志】

◆明大ラグビー部 1923年(大正12)創部。大学選手権優勝は、1位の早大15度に続く13度。日本選手権優勝1度。「重戦車」と呼ばれる強力FWを武器に、80年代から90年代に黄金期を築いた。87年対抗戦での早大との「雪の早明戦」は名勝負として今も語り継がれる。67年間監督を務めた故北島忠治氏の遺訓「前へ」は代名詞に。部のエンブレムはペガサス。

◆W杯の日本代表に選出された明大出身選手 相沢雅晴、藤田剛、河瀬泰治、太田治、中島修二、元木由記雄、吉田義人、赤塚隆、川俣直樹、斉藤祐也、松原裕司、田村優

09年12月関学大戦の後半40分、中央にトライを決める明大SO田村
09年12月関学大戦の後半40分、中央にトライを決める明大SO田村