大学ラグビーに焦点を当てるシリーズの第4回は京産大。大学選手権でいまだ優勝経験のない同校は、たたき上げの精神で多くのワールドカップ(W杯)メンバーを輩出した。プロップ田倉政憲、ロック伊藤鐘史(ともに現京産大コーチ)、CTB吉田明、SO広瀬佳司、WTB大畑大介らに加え、現代表候補にもSH田中史朗、プロップ山下裕史がいる。大西健監督(69)の信念は「努力は才能を凌駕(りょうが)する」。そのルーツに迫る。

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84年秋、京都の吉祥院球技場で京産大の大西監督は高校の試合を眺めていた。その年の関西リーグは同大、天理大に続く3位。有名選手は関東の早慶明、関西なら名門の同大に流れる。選手探しに、どんな試合でも足を運んだ。公立の東宇治高は、次々とトライを浴びていた。だが点差が広がっても、1人だけ諦めずに走り、転んでは起き、起きてはタックルに入る選手がいた。後に日本代表として91、95年と2度のW杯に出場する田倉政憲だった。

35年が過ぎた今でも大西監督は鮮明に覚えている。

「(強豪の)伏見工とやったら100点差で負けるような高校にバンバン、タックルにいく生徒がおったんです。まだ体は小さいし、普通の選手。でも、その姿を見て、声をかけた」

入学するとプロップではサイズが足りず、当初はフッカーだった。連日、嘔吐(おうと)しながら、2時間もスクラムを組んだ。田倉が2年になると、大西監督はあえて、気が強いことで有名だった笹木栄を対面にしてスクラムを組ませた。笹木は定位置を譲りたくない一心で、組む瞬間に田倉に頭突きを食らわせた。2日連続で救急車で運ばれた。それでも練習を休むことはなかった。

95年から3大会連続でW杯に出場したSO広瀬は、大阪の公立校である島本高の出身。毎朝6時に始まる練習の1時間前から1人で走り込み、夜の練習後にはキックを100本蹴った。日本代表でスターになったWTB大畑は、東海大仰星高時代は高校日本代表の控え。京産大に拾われた選手の1人で、厳しい走り込みで才能が開花した。

心を鍛えることも取り入れ、今でも比叡山の明王堂に大阿闍梨(あじゃり)を訪ねる。夜2時に修行として獣道を30キロ歩く。真っ暗闇で、すぐ横は崖。部員同士が手を離せば転落する。広瀬、大畑らと同じ時期を過ごした加藤剛OB会長(44)は「特にFWの選手は、泣きながら練習をしていた。体力、肉体的な部分だけでなく、心も強くしてもらった」と明かす。

89年春に京産大を巣立った田倉は、三菱自動車京都へ進んだ。当時、日本代表を率いた宿沢広朗監督(享年55)は、田倉を抜てきする。同年5月28日。東京・秩父宮で行われたスコットランド戦が、桜のジャージーを着た初の試合になった。5年前に見た時と同じように、田倉は倒れては起き、起きてはタックルを繰り返した。ただあの頃より体は大きく、スクラムは見違えるほど強くなっていた。

日本は28-24で金星を挙げ、2年後のW杯ではジンバブエから初勝利を飾る。大西監督は「田倉のスクラムとタックルで、日本は強くなった」と振り返る。

スコットランドを破った日、歓喜に沸く秩父宮で、宿沢監督と目が合った。

「先生、ありがとうございました。おかげで、勝つことができました」

その言葉を聞いた瞬間、大西監督の頬を涙が伝った。【益子浩一】

◆京産大ラグビー部 1964年(昭39)に同好会として発足。関西3部リーグに所属した73年に、天理大コーチだった大西監督が就任。3季目の75年に1部昇格を決める。関西リーグは90年に初制覇し優勝4回。全国大学選手権は、計7度進出した4強が最高成績。シーズン中は大西監督が身銭を切って、毎日選手にちゃんこ鍋を食べさせる「栄養合宿」が伝統。同監督は定年となる今季が、最後のシーズンになる。明大出身で神戸製鋼で活躍した元日本代表CTB元木由記雄がヘッドコーチを務める。

◆W杯の日本代表に選出された京産大出身選手 田倉政憲、前田達也、広瀬佳司、吉田明、大畑大介、田中史朗、山下裕史、伊藤鐘史。

17年、大学選手権準々決勝で明大に敗れ選手をねぎらう京産大の大西健監督(左から2人目)
17年、大学選手権準々決勝で明大に敗れ選手をねぎらう京産大の大西健監督(左から2人目)