日本代表フランカーのリーチ・マイケル主将(30=東芝)は15歳だった04年春、ニュージーランド(NZ)クライストチャーチから札幌山の手高への留学を決断した。母方の祖父エモシさんは太平洋戦争中に日本と戦った経験があり、母イバさん(59)は日本行きに反対。それでもリーチは意思を曲げなかった。

リーチ・マイケルが日本留学前に在籍していたセントビーズ高(撮影・松本航)
リーチ・マイケルが日本留学前に在籍していたセントビーズ高(撮影・松本航)

04年春、当時15歳だったリーチの心は固まっていた。母イバさんが日本行きを反対しても、強い意思で親元を離れることを選んだ。

リーチ 何があっても、日本に行きたかった。NZを出たかった。出ていった方がお父さん、お母さんの負担も減るし、自分で好きなこともできると思った。

NZでの生活は、必ずしも幸せばかりとはいえなかった。少年の純粋な心は、傷つくことも多かった。

リーチ 子どもの頃に着ていた服は中古。穴があいた靴を履いていたから、いじめられた。

リーチが通っていたNZ・クライストチャーチのセントビーズ高には、信頼する1人の友がいた。10歳から共にプレーし、現在は神戸製鋼のSOイーリ・ニコラス(30)。夜中に集合すると、自宅裏の川へ遊びにいく仲間だった。いつも車のライトを外し、ワイヤでつなげた手作りの懐中電灯を手に、はだしで川に入った。2人で何匹ものウナギを捕まえては喜び合った。

NZ時代からリーチを知る神戸製鋼SOイーリ・ニコラス(撮影・松本航)
NZ時代からリーチを知る神戸製鋼SOイーリ・ニコラス(撮影・松本航)

そんな友は5歳まで、母の故郷だった札幌で暮らしていた。04年春、イーリは一足先にセントビーズ高と姉妹校だった札幌山の手高へ留学。新生活を始めると同校関係者に「いい選手を知らない?」と問われ、迷わずに「マイケルという友達がいます」と推薦した。

イーリ マイケルとは一番仲が良かったから。その時は「日本で通用する」とか深く考えていなかった。

イーリの父マークさん(62)は留学プログラムを手がけており、以前からリーチの自宅を日本の高校生が訪れていた。その1人が03年春、花園2連覇中の大阪・啓光学園(現常翔啓光学園)からやって来たCTB森田尚希(33)。現在、近鉄で活躍する森田は高1の終わりに半年間派遣され、リーチの家でも生活した。

啓光学園高時代にリーチ・マイケルの家を訪れた近鉄CTB森田尚希(撮影・松本航)
啓光学園高時代にリーチ・マイケルの家を訪れた近鉄CTB森田尚希(撮影・松本航)

森田 その時はマイケルが14歳。体は細く、身長も低かった。簡単な英語で話をしたら、日本のラグビーにすごく興味を持っていた。僕はマイケルの家のパソコンで、日本の家族にローマ字でメールを送っていた。本当にお世話になった。

その他にも18年度までコカ・コーラでプレーしたNO8豊田将万氏(33)やフッカー有田隆平(30=神戸製鋼)の東福岡高OBら、有望な少年たちと日常的に接していた。リーチはその度に、疑問を抱いていた。

リーチ スキルも強さもあって、プレーがダントツでニュージーランド人よりうまい。小さくてもうまいから、僕の高校では「試合で使える日本人は2人まで」というルールができた。日本を大リスペクトしていたから「こんなにうまいのに、何で日本代表は弱いんだろう」と不思議だった。

NZの高校は日本の中2~高3にあたる5学年。約300人の部員がいたセントビーズ高において、リーチは将来を期待されていた。14歳未満のクラブチームでコーチをしていたイーリの父も、その力を認めた。

マークさん タックルをして「今のは大丈夫だろうか」と僕らが思っても、痛がらずに起き上がり、次の仕事に向かう。今と変わらない。チャラチャラせず、一生懸命な好青年だった。

札幌からの連絡を受け、リーチに迷う材料はなかった。父コリンさん(62)は「自分のやりたいことをやれ」とうなずいた。父は留学に反対していた母イバさんへも「あいつの人生、マイケルに選ばせてやれ」と伝えた。母は自慢のミートパイを頬張る息子を見つめて、最後は背中を押した。

準備に要したのは、わずか3週間ほどだった。期待と不安を胸に、リーチは日本行きの飛行機へ乗り込んだ。(つづく)【松本航】