泣いてばかりのパラリンピックだった。リオデジャネイロ・パラリンピック陸上女子400メートル(切断などT47)銅メダルの辻沙絵(22=日体大)がメダル獲得までの秘話を明かした。大好きだったハンドボールから陸上へ転向して、1年半でリオで成功を収めた。順風満帆に見えたが、その裏には葛藤や苦悩があった。さらにリオ大会を経験したからこそ浮き彫りになった東京大会の課題も挙げた。【取材・構成=峯岸佑樹】


■「お前だから出来ることもある」高校恩師も後押し


 辻の偉業の裏には長年続けたハンドボールがある。水海道二高ハンドボール部在籍時の監督だった飯田健一教諭(35=現牛久栄進高)が辻を語った。

 6年前―。「こんな子いるんだ」。ポジションは右サイド。スピードとフェイントを生かし、ルーズボールにはちゅうちょなく飛び込んだ。左手と右腕の先でボールをつかむ。独特のキャッチでボールが右腕にすれて何度も出血した。1年でベンチ入りし、2年ではレギュラーの座をつかんだ。高校総体ではベスト8まで進出した。「負けず嫌いで、弱音は一切吐かなかった。頑張り屋で障害をカバーしてきた努力家です」。

 大学側から陸上転向を打診された時、「迷っています」と相談の電話があった。「沙絵、お前だから出来ることもある」。そっと背中を押した。

 昨年9月、鬼怒川の堤防が決壊して甚大な被害が出た関東・東北水害で、同校には大量の泥が流れ込んだ。ボールなど練習用具も水に漬かり、ハンドボール部は学校周辺の体育館などを転々とする日が続いた。しかし、水害を乗り越えて、同部は今春の全国高校選抜、夏の高校総体を制した。

 辻はリオ大会前、10月の岩手国体を控える同部の選手と約束をした。「私も負けない。互いに頑張ろう」。辻はリオ大会で銅メダルを獲得、同部は茨城代表として国体でも優勝して県勢初の「全国3冠」を達成した。飯田教諭はこう言った。「沙絵が銅で3位だったから、選手も『3冠を目指そう』と気合が入った。沙絵には感謝しています。ありがとう」。


■夢のような瞬間


 「パラリンピックは輝いている場所でした。夢のような瞬間でした」。銅メダルを首に下げて、涙する辻が表彰台に立った。表情は徐々に笑顔に変わっていった。その先には、観客席で号泣する同大陸上部パラアスリート部門の水野洋子監督(47)がいた。選手、監督として、二人三脚で初めて臨んだパラリンピック。取材エリアで記者からメダルを求められたが、辻はそれを断って、水野監督へ最初にメダルをかけた。親子のような信頼関係が銅メダルを生んだ。

 あの日から3カ月―。辻は当時の様子を思い返した。今でも鮮明によみがえる不安や緊張…。五輪スタジアムに響き渡るラテン音楽とブラジル人の大歓声。完全アウェーだった。前半200メートルを28秒台で入り、残り100メートルで4番手から3番目に順位を上げてゴール。1分0秒62。電光掲示板で確認して3位と確信した。「メダルが取れて良かった…」。安堵(あんど)が涙に変わった。

 辻 世界選手権では全く緊張しなかったのに『失敗したらどうしよう』と不安しかなかった。地響きするぐらいの歓声で、自分の心臓の音しか聞こえないぐらいでした。選手が死ぬ気でメダルを取りにいくという思いが伝わり、これがパラリンピックかと肌で感じました。


■大学2年の決断


 北海道出身。生まれつき、右腕の肘から先がない。小5からハンドボールを始めた。今年ハンドボールで全国3冠を達成した強豪の水海道二高(茨城)では点取り屋として活躍した。健常者と全国の舞台で戦ってきた自負もあり「障がい者」という意識はなかった。20年東京大会が決まり、大学側からパラ陸上の転向を打診された。「今までやってきたことは何だったの。どうして今更」。葛藤の日々が続いたが大学2年の15年3月、陸上へ転向した。

 結果はすぐに出た。昨年10月の世界選手権(カタール)は100メートルを13秒34で6位入賞。その後も日本記録を次々と更新した。当初は100メートル、200メートルに出場したが、水野監督の指導でリオ大会でメダルが狙える400メートルを中心にトレーニングを変えていった。その戦略が功を奏した。

 辻は水野監督を母親のように信頼して、密なコミュニケーションを図った。競技以外の恋愛や洋服、髪形などのプライベートのことも何でも話した。会場や選手村でもその姿は〝親子〟に間違えられるほどだった。

 400メートル決勝前日。選手村で水野監督と夕飯を終えた辻は部屋で号泣した。

 辻 緊張して頭がおかしくなった。ベッドと壁の間に挟まり、『嫌だ !! 』『嫌だ !! 』と何度も叫んでいました。こんなの初めてでした。そんな時、監督からメッセンジャーでMr.Childrenの「GIFT」と一緒に「1年半付いてきてくれてありがとう」とメッセージが届いて…。涙が止まりませんでした。

 翌日、1次アップ終了後、水野監督と泣きながら抱き合って、送り出された。

 辻 「失敗しても次がある」「今までこれだけやってきた」「もし、ダメだったとしても、また日本に戻って一から一緒に頑張ろう」「沙絵を信じる」って言葉を掛けられて。こんなに私のことを思ってくれて…。精神面まで支えてもらったなと強く感じました。振り返ってみると、泣いてばかりのパラリンピックでした。


■強化の停滞心配、2つの提言


 リオ大会で日本のメダル獲得数は、12年ロンドン大会の16個を上回る24個と健闘したが、初めて金メダルゼロに終わった。世界のレベルが上がっているのと同時に、日本の強化は停滞していた。100個以上の金メダルを獲得した中国。ロシアやウクライナは国からの多額な強化予算がつくなど国家レベルで強化している。日本は東京大会では、金メダル22個(ランキング7位)の目標を掲げ、各競技団体の選手発掘や競技力向上が急務とされる。辻は東京大会へ向けて、2つのことを提言する。


 辻 ドーピング検査の時、選手村に男性スタッフしかいなくて、不正がないか尿を確認して、ちょっと嫌だなと感じました。また、ゼッケンを着けることなどが出来ないので、女性であれば気を使わず競技に集中できる。女性特有の体調管理も安心できます。


 辻 本番前はメンタル面のサポートが重要で、最後はこの人に見てもらいたいという考えがある。リハビリの延長線上ではないので、専門知識をもっている人のサポート体制が必要。米国は元五輪メダリストがコーチについていたり、五輪とパラの違いや差はなかった。

 五輪競技に比べて、パラリンピック競技は環境整備が整っていないのが現状だ。東京大会まで3年8カ月。辻は陸上へ転向する時「ハンドボールをやめて良かったと思えるように。後悔しないように」との思いで決意した。メダルは獲得したが満足はしていない。「今は、もっと速く、強くなりたいという気持ちしかない。東京大会で金メダル。そして、会場を満員にしたい」。短距離の女王が覚悟を決めた。


 ◆辻沙絵(つじ・さえ)1994年(平6)10月28日、北海道七飯町生まれ。小5でハンドボールを始める。水海道二高では高校総体ベスト8、国体に出場。13年、日体大ハンドボール部に入部。昨年12月に陸上部パラアスリート部門に転部。今年4月の日本選手権では100、200、400メートルの3冠を達成。趣味は映画鑑賞。好きなタイプはEXILEのTETSUYA。家族は両親と姉、弟。158センチ、45キロ。血液型O。


■「第2の辻」発掘へ来年度から奨学金


 2020年東京パラリンピックに向けて日本財団と日体大がタッグを組んで、「第2の辻沙絵」発掘へ取り組む。日体大及び来春開校予定の日体大付属高等支援学校(北海道)など日体大の付属高校に在学する障がい者アスリートに、日本財団が17年度から年間1人最高500万円の返還不要の奨学金を支給する。

 対象は世界レベルの大会で活躍が期待できる学生で目標人数は50人。日体大に設置される選考委員会が審査する。奨学金は学費や遠征費、用具費などの活動支援費になる。10月の会見で日本財団の笹川陽平会長は「世界レベルの学生を育成することと、障がい者スポーツの指導者を育成して裾野を広げることが目的。日体大はトップ選手だけではなく、教員や指導者の養成にも力を注いできた歴史と実績がある」と説明した。

 日体大は来春、北海道・網走市に知的障がい者を対象に付属の高等支援学校を開校する。「1学年40人の全寮制。パラ種目をはじめとした選手の強化をはかっていきたい」と松浪健四郎理事長。昨年、大学に創設したパラアスリート部にも複数種目で受験希望があるという。辻も「銅メダルは私の力だけではなく、日体大のサポートのおかげ。メダルを取れる選手がどんどん続いてほしい」と奨学金制度に期待していた。


■「私は恵まれている」謙虚さを忘れない


 愛くるしい笑顔の辻ちゃんだが、スイッチが入ると一切笑わない。1年半取材して、努力はもちろんだが「人」に恵まれていると思った。水野監督、飯田先生と競技以外においても真剣に向き合ってくれる恩師がいる。辻ちゃんは、ことあるごとに「私は恵まれている」と言う。確かに、大学や恩師がここまでサポートしてくれる選手はいないと思う。ただ、自身でもそれを理解しているのがすごい。視野が広く、メダリストとなった今も謙虚さを忘れない。水野監督とは本当に親子にしか見えない。4年後。〝親子〟で抱き合いながら、愛くるしい笑顔を見せてほしい。(取材後記)

(2016年12月14日付本紙掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。