競泳は柔道、レスリング、体操に続き、五輪では過去22個の金メダルを量産している。その中で、選手に5個の金メダルをもたらしたのが、日本水泳連盟の平井伯昌ヘッドコーチ(HC、53)。指導法は選手とコーチの立場を超え、人間対人間の付き合いを重視する。北島康介氏(34)、萩野公介(22)の金メダリスト2人とは、家族のような信頼関係を築き、一心同体となって世界の頂点を勝ち取った。

競泳男子日本代表の萩野公介(左)は平井伯昌競泳日本代表ヘッドコーチから練習前に指示を受ける
競泳男子日本代表の萩野公介(左)は平井伯昌競泳日本代表ヘッドコーチから練習前に指示を受ける

■人間対人間、コーチを演じているわけではない

 練習前のプールサイドは、家族だんらんの雰囲気が漂う。平井HCは、選手たちと雑談でコミュニケーションを図る。「昨日の夕飯は何を食べた」「こんな面白いテレビ番組があった」「(『男はつらいよ』の)寅さんが好きなんだ」と、水泳以外のたわいのない話で盛り上がる。自宅のリビングで親子、兄弟がするような会話。選手たちの笑顔は絶えない。

 平井HC 私はこんな人間なんだと、自分自身を全部さらけ出している。選手によって、段階はあるが、最終的には何でも言い合える関係にならないといけない。練習時間になったからコーチになるということではない。人間対人間。コーチを演じているわけではない。

 選手と一線を引く指導者も多いが、1対1で食事に行くこともいとわない。自宅に選手を呼ぶこともある。

 平井HC 選手との距離は自由に近くなったり、遠くなったりできるようにしておくことが必要。近くになっても嫌がられない。遠くになっても不安がられない。難しいことかもしれないが、親子や夫婦には、そんな関係がある。僕は選手たちを平井ファミリーのように思っている。

 選手と一体となって金メダルを取る。転機は00年シドニー五輪だった。北島は男子100メートル平泳ぎで0秒43差の4位。タッチ差でメダルを逃したが、当時の金メダリストのフィオラバンティ(イタリア)がどんな選手なのか、誰に指導を受けているのかという基礎情報がまったくなかった。

 平井HC 金メダリストのレースパターンが分からなかった。それは自分の恥だった。

師匠の平井伯昌コーチ(左)と握手を交わす萩野公介
師匠の平井伯昌コーチ(左)と握手を交わす萩野公介

■結び付きが強ければ、危機に陥っても立て直すことができる

 以来、国際大会などでは積極的に、海外のコーチと接触するようになった。

 平井HC コーチと仲良くして、ライバル選手の情報を得る。ずうずうしく自分から話し掛ける。リサーチしているうちに、その選手の性格も分かってくる。

 ライバルの戦術を把握する一方で、教え子とも強固な関係を築き、師弟で金メダルに挑む。

 平井HC 指導法はシンパシー。互いに言い合う。結び付きが強ければ、危機に陥っても立て直すことができる。

 北島とは中学2年から指導してきたこともあり、濃密な関係を醸成できた。だが、東洋大入学から指導を始めた萩野に関しては、一筋縄ではいかなかった。

 幼少時代から敵なしで怪童といわれた萩野。練習では誰よりも強く、圧倒的なタイムも持つ。その半面、いざ本番になると、ライバル瀬戸に対して弱気になったり、ころっと負けることがあった。平井HCは、そこにメンタルの弱さを見いだした。このままでは4年に1度の大舞台で力を発揮できない。

 平井HC 北島はもちろん、一流選手は土壇場でもピリピリせず、心に余裕がある。土壇場で勝つのは人間力のある人。

平井伯昌監督(右)と胸を叩きながら言葉を交わす萩野公介
平井伯昌監督(右)と胸を叩きながら言葉を交わす萩野公介

■何のためにコーチがいるのか?不安があれば素直に言え

 幼少期からずぬけた存在だったからか、萩野は人に対して腹を割らず、本音を言わない傾向が強かった。人間嫌いを公言したこともある。家族のように言い合う関係とは、ほど遠かった。平井HCは「何のためにコーチがいるのか。不安があれば素直に言え」と何度も諭したが、性格は簡単に直らない。13年世界選手権、14年世界短水路選手権では瀬戸に金メダルを奪われた。本人は疲労、不調を敗因にしたが、平井HCの見方は違った。

 平井HC 気持ちの弱さをごまかして、体調のせいにしていた。

 15年夏には右肘骨折のアクシデントもあったが、直後に東洋大の主将に抜てきする。監督と主将。必然と会話をする機会を増やす作戦だった。年が明け、五輪前の2カ月間の合宿では、寝食を共にし、時には釣りにも出掛けた。

 平井HC 厳しいことを言うせいか、一緒に食事をしていても、話し掛けてくることは少なかったが、だんだんと積極的に自分のことを話し始めた。気を許すようになったなと。ざっくばらんに、ツーカーで話せるようになった。

 3年以上かけ、萩野の閉ざされた心をこじあけ、家族のような関係を築き上げた。

 五輪金メダル獲得後、萩野は言った。「平井先生に金メダルをかけてあげたいという一心で泳いだ。タッチした瞬間、自分は1人じゃないと、初めて心の底から思えた。苦しい時間もあった。そんな不安は先生に話した。最後は先生に背中を押してもらった」。

 平井HC 金メダルを取る人間は誰にも負けられない。ライバルにも自分にも負けるわけにはいかない。五輪前になると、自分やコーチを信じ切れず、疑い、揺らいだ人間が勝手に負けていく。最後まで自分とコーチを信じ抜ける人間が金メダルを取る。(萩野には)怒ってばかりで申し訳なかったが、(五輪前には)喜びを分かち合えるようになってきた。

 平井一家。家族として一心同体で戦った結果が、5個の金メダルだった。【田口潤】

 ◆平井伯昌(ひらい・のりまさ) 1963年(昭38)5月31日、東京・駒込生まれ。早稲田中・高を経て早大に進学。在学中に選手からマネジャーに転向し、卒業後に東京スイミングセンター入社。96年から平泳ぎの北島康介を指導し、04年アテネ、08年北京で五輪2大会連続2冠に導く。昨年リオデジャネイロ五輪では男子400メートル個人メドレーで萩野公介を金メダルに。他にも中村礼子、寺川綾、星奈津美らメダリストを輩出。13年4月から東洋大監督。15年6月から日本水連競泳委員長。

 ◆水泳ニッポンと五輪 戦前から戦後にかけて、日本は水泳王国だった。32年ロサンゼルス大会は5個、36年ベルリン大会も4個の金メダルを獲得した。「フジヤマのトビウオ」といわれた古橋もメダルこそ獲得できなかったが、世界記録を連発。72年ミュンヘン大会後は低迷し、メダルから遠ざかったが、88年ソウル大会で鈴木大地、92年バルセロナ大会では14歳の岩崎恭子が世界の頂点に。歴史が変わったのは04年アテネ大会。北島2冠を含め計7個のメダルを奪取。以来、メダル量産を続けている。

(2017年2月1日付本紙掲載)【注】年齢、記録などは本紙掲載時。