1998年2月17日、長野五輪ジャンプ団体で日本は金メダルを獲得した。あの吹雪の中の大逆転ドラマを、渡部暁斗は会場で見ていた。当時小学3年生。観客席の熱気が強く心に残ったという。その数カ月後にジャンプを始めた。あの歓喜の残像が、今回のノルディックスキー複合2大会連続銀メダルの原点になっていたのだ。

 長野五輪にまつわる話をもうひとつ。仙台を拠点に練習していたフィギュアスケート日本代表の荒川静香と本田武史の話題は、地元で大きく報じられていた。これに刺激されてスケート場に通い始めた姉についていったのが羽生結弦。当時まだ4歳。こちらは16日に始まったフィギュアスケート男子で2大会連続の金メダルを狙っている。

 20年前、長野で見たあの感動的な風景は、平昌につながっているのだ。そう思うと何だか胸が熱くなった。あのとき日本列島にまかれた感動の種が、大きく、たくましく成長を遂げて、世界で見事な大輪の花を咲かせている。あの五輪が自国開催でなければ、今のまぶしい景色はなかったのかもしれない。五輪を地元で開催するということの大きさを、痛感せずにはいられない。

 そういえば柔道で一時代を築いた山下泰裕さんも、小学1年生の時に九州の熊本で1964年東京五輪をテレビで見て、「自分もいつかメインポールに日の丸をと思った」という。その後、柔道を始め、84年ロサンゼルス五輪で金メダルをつかんだ。日本中が感動した、右足肉離れの大けがに耐えての快挙もまた、20年前とつながっていた。

 平昌が終われば、すぐに2020年東京五輪がやってくる。開催決定以来、何かとトラブル続きで、最近は冷めた目で見る向きもある。しかし、地元開催という強い熱は、私たちの想像を超えて日本中に広がって、きっとまた大きな希望の種をまくはずだ。そして、その種が10年、20年をへて、未来に大きな花を咲かせるのだ。

 実は山下さんは日本がボイコットした1980年モスクワ五輪代表でもあった。そのときの178人の幻の代表選手たちの多くが、幼いころに見た東京五輪に感動し、「きっと自分も」と夢を見ながら競技に打ち込んできた。しかし、ひたすら努力して膨らんだ大きなつぼみは、ついに花を咲かせることはなかった。彼ら、彼女らの無念もまた、忘れてはならない。【首藤正徳】