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紙面企画

Ola! WorldCup

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毎週水曜日の紙面ブラジルW杯ワイド特集「Ola! World Cup」に掲載された特集記事を余すとこなくお届けします。

W杯得点者7人の侍からのエール


 過去4回のW杯で、日本代表が挙げたゴール数は12。現代表選手を除くと、W杯で得点した代表OBは7人いる。98年フランス大会の中山雅史、02年日韓大会の鈴木隆行、稲本潤一、森島寛晃、中田英寿、そして06年ドイツ大会の中村俊輔、玉田圭司。あのゴールの記憶と、その後のサッカー人生とは-。W杯スコアラーたちに聞いた。

<細かくしつこく根気よく/中山雅史>

 日本のW杯初ゴールは、98年フランス大会の中山雅史氏(46)だった。「実は3試合ともにあんまり記憶にないんだよね」と言う。ジャマイカ戦も0-2のビハインド。3連敗が現実味を帯び始めた中、後半29分にその瞬間は訪れた。

 中山氏 負けているし、とにかく点を取らないとと思っていた。相手がアルゼンチンだろうが、クロアチアだろうが、何かつめ跡を残したいなって思いだった。だから、初ゴールは「良かったね」ってくらい。

 アシストした呂比須は当時「パスだ」と言っていたというが「最近は『あれはシュートだった』って言い出してる」。いかなる状況でも、ゴール前に飛び込むことをやめなかった姿勢が初ゴールを呼び込んだといえる。

 「2戦目のクロアチア戦で、運命が変わっていたかもって思い出す場面がある」と言う。MF中田のパスを受け、GKに防がれたシュートではない。多くの人の記憶にはない場面だ。

 中山氏 あのシュートの前。切り込んでクロスを上げるふりをした時に、相手DFの足がかかった場面がある。その瞬間「PKだ」と思った。でもファウルをもらいにいった感もあった。それをかわしてシュートを打っていたら、違った運命だったかなって思うこともあるんだよね。

 体現したどんな状況でも諦めない姿勢は、当時の日本の象徴。今大会、それはFW岡崎に受け継がれる。「日本は細かく、しつこく、根気よくやるしかない。それを90分やり続けられるかだと思う」。【高橋悟史】

 ◆中山雅史(なかやま・まさし)1967年(昭42)9月23日生まれ。国際Aマッチ通算53試合21得点。

<無得点でも自信変わらず前向きに/鈴木隆行>

 日本に歴史的なW杯初の勝ち点をもたらすゴールを決めたのが、02年日韓大会のFW鈴木隆行だった。1次リーグ初戦のベルギー戦。先制点を奪われた2分後の後半14分、MF小野のパスに抜け出すと、相手GKより一瞬早く右足のつま先で同点ゴールを流し込んだ。

 W杯イヤーの02年の公式戦は、この時まで19試合無得点。1点を追う苦しい状況下で、自身だけでなく、日本サッカー界の記憶にも記録にも残る一撃を突き刺した。「うれしい。形はどうあれ、決められて良かった。無得点だった? 自信は変わっていなかった。常に前向きだった」。「銀狼」の雄たけびが、日本中を興奮させた。

 あれから12年。来月5日で38歳になる鈴木は、J2水戸で今なお戦い続ける。今季リーグ戦は10試合で無得点。それでもゴールへ向かう貪欲な姿勢は、色あせることがない。

 ◆鈴木隆行(すずき・たかゆき)1976年(昭51)6月5日生まれ。国際Aマッチ通算55試合11得点。

<若い人は結果を出すことを目指せ/稲本潤一>

 「とにかく、日本がW杯で初めて勝てたことがうれしかった」。12年前の興奮を、稲本ははっきり覚えている。02年6月9日、1次リーグ第2戦のロシア戦。後半6分、DF中田浩のグラウンダーパスをFW柳沢が直接流し、ゴール前の稲本が左足でトラップ。すぐさまGKの動きを確認し、右足シュートで均衡を破った。1-0で逃げ切り、日本はW杯初勝利を挙げた。

 2-2で引き分けた初戦ベルギー戦で1得点。「気分的に勢いがあって、乗ってる時だった。自分はボランチだったから、正直、大会前は点を取ろうという気持ちはなかった」と振り返る。まさか自分の右足で日本のスポーツ史を塗り替えるとは思っていなかった。

 全国が人さし指を揺らしながら喜びを爆発させる稲本の姿に歓喜。男性の間ではベッカムのソフトモヒカンをまねた髪形が流行し、女性はイケメン選手に夢中に。多くの人がサッカーの祭典を知る機会となった。

 稲本 W杯はサッカーへの興味を伝えられる大きな影響力を持っている。子供も女性も、みんな夢中になってくれる。サッカー文化を日本に根付かせることにつながる。自分が活躍を見せられたことで、それを確信できた。

 この活躍で「スーパーボランチ」と称され、移籍したフラムでは攻撃的な役割を期待された。「ボランチとしてプレーにギャップを感じたけど、それが選手としての成長につながった」。プレーの幅が広がり、昨季からはセンターバックとして川崎Fを支える。

 「4年に1回の舞台に出るという難しさや重要性を知ることは貴重な経験になる。それがゴールじゃないけど、若い人にはW杯で結果を出すことを目指して頑張ってほしい」。日本サッカーの歴史、自分の人生を変える一撃を、後輩にも期待する。【由本裕貴】

 ◆稲本潤一(いなもと・じゅんいち)1979年(昭54)9月18日生まれ。国際Aマッチ通算82試合5得点。

<代表はパワースポット W杯はそれ以上/森島寛晃>

 C大阪でアンバサダーを務める森島寛晃氏(42)は、02年日韓大会の1次リーグチュニジア戦で先制点を決めた。後半開始から途中出場し、3分後にゴール。右サイドからこぼれてきた相手DFのクリアを右足で豪快に蹴り込んだ。

 「98年は出場11分だけで、もっと思い切ってやれば良かったという心残りもあった。チュニジア戦の会場はC大阪のホーム長居だし、絶対に出番が来ると思っていた」。シュートはペナルティーエリア内から放ち「自分ではロングシュートを決めたと思っていた」。ゴール後に両手を広げて喜んだ姿は、飛行機ポーズとして注目を集めた。それまでは世間から「G大阪の森島」と間違えて覚えられていた時期もあったという。「あのゴールで『C大阪の森島』と認識してもらえた。今の立場があるのも、あのゴールがあったから」と感謝する。

 08年に引退。「代表は自分の気持ちを変えてくれるパワースポット。W杯はそれ以上の場所。日本は今回で5度目だし、得点を重ねて次のステージに行ってほしい」と、後輩たちの活躍を期待する。【福岡吉央】

 ◆森島寛晃(もりしま・ひろあき)1972年(昭47)4月30日生まれ。国際Aマッチ通算64試合12得点。

<試合を締められたことはうれしかった/中田英寿>

 元日本代表MF中田英寿氏(37)もW杯で得点を記録している。02年日韓大会の1次リーグ3戦目のチュニジア戦。後半30分にMF市川が右から上げたクロスボールに中央やや左から走り込み、ダイビングヘッドで相手GKの股間を抜いた。

 W杯初の決勝トーナメント進出を大きく引き寄せるゴールに「試合を締められたことはうれしかった」と当時コメントしている。

 98年フランス大会から06年ドイツ大会まで3度のW杯に出場し、10試合で1得点。06年に引退後は、世界各地を旅しており「100カ国以上、行っている」と言う。

 来月のW杯期間中は「ナカタドットネットカフェ」をブラジル・サンパウロにオープンし、日本の「おもてなし文化」を世界へ発信する。

 ◆中田英寿(なかた・ひでとし)1977年(昭52)1月22日生まれ。国際Aマッチ通算77試合11得点。

<あれはゴールじゃない 負けたし、みじめだった/中村俊輔>

 あれから8年。06年W杯ドイツ大会まで時計の針を巻き戻し、中村俊輔(35=横浜)は迷いなく言った。

 「あれはゴールじゃないよ。負けたし、みじめだった」

 W杯の歴史、日本のサッカー史にもはっきり「前半26分、得点者・中村」と記録されている1次リーグのオーストラリア戦。苦笑いを浮かべながらではあったが、確かなその口調にプライドがにじんだ。

 左足でゴール前へ送った柔らかいクロスに柳沢と高原の両FWが飛び込んだ。相手GKとDF2人も含めた混戦。選手が交錯する間にワンバウンドし、ゴールに吸い込まれた。正確なキックを誇る中村にとってあれはシュートではなくクロスだった。チームも逆転負け。10番を背負った者として今も悔しさが募る。日本のW杯通算7点目を誇ることもせず、勝利へ導けなかったこともひっくるめて「みじめ」とまで言った。

 ここまでなら自嘲や自虐といったネガティブな話で終わる。だが、長く日本の10番を背負い02年日韓大会は落選、10年南アフリカ大会は直前で定位置を失うなどだれより悔しい経験を積み重ねてきた。苦い思い出ばかりの名手は、しっかりとW杯戦士に中村なりのメッセージを加えた。

 「あれがゴールになっちゃうくらい、何が起きるか分からないのがワールドカップ」

 何が起きるか分からない。裏を返せばサプライズでも何でも起こせるはず-。4年前のW杯を最後に代表から退いたが、戦術眼や技術は今回の23人の誰にも負けていない。「ゴールじゃない」というゴールもまた、中村という名選手の生きざまを示す。ブラジルでは得点にまつわる、どんな新しいドラマが生まれるのだろう。【八反誠】

 ◆中村俊輔(なかむら・しゅんすけ)1978年(昭53)6月24日生まれ。国際Aマッチ通算98試合24得点

 ◆誤審!? 中村が「ゴールじゃない」と言い切る根拠は直後の報道にもある。一部で同戦を裁いたアブデルファタハ主審(エジプト)が、試合後にオーストラリアの選手に対し、MF中村の得点が誤審だったと認める発言をしたと報じられた。これを伝え聞き「審判も誤審って認めたんだから」と言う。ただ、その後これを否定するような別の記事も出た。真相は今もはっきりしない。確かなことは、国際サッカー連盟(FIFA)の公式サイト上に、しっかり中村の得点と記録されているということだ。

<悔いのないようにやるのは当たり前/玉田圭司>

 玉田圭司(34=名古屋)はドイツ大会1次リーグのブラジル戦で、先制ゴールを決めている。前半34分に左足でゴール左隅に強烈なシュートをたたき込んだ。

 「アレ(三都主)から柔らかい、いい感じのパスが来たので迷いなくダイレクトで打てた。緊張していたけど、冷静にプレーしていた」と振り返る。大舞台で得点したが、その後は「何も変わらない。サッカー観、人生、何も変わらない」という。

 実際に翌07年以降もJリーグで活躍を続け、10年には年間最多得点となる29試合13得点でクラブの初優勝に大きく貢献。そこで燃え尽きず、11年には33試合14得点と自己記録を更新している。日本代表でも08~10年は再び定着して国際Aマッチ通算72試合16得点の結果を残した。あくまで淡々と自分の仕事に徹した。

 現在の日本代表へは「みんな分かってると思う。悔いのないようにやるのは当たり前。4年に1度の大舞台で自分の力を存分に出してほしい」とエールを送った。【上田博志】

 ◆玉田圭司(たまだ・けいじ)1980年(昭55)4月11日生まれ。国際Aマッチ通算72試合16得点。

















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