日本のお家芸レスリングの礎は、日本協会の第3代会長を務めた故八田一朗氏(享年76)が作り上げたと言っても過言ではない。64年東京五輪では、金メダル5個を獲得。大躍進の裏には「八田イズム」と呼ばれた指導があった。今では「スパルタ」「根性論」の言葉が独り歩きし、その教えは歪曲(わいきょく)して捉えられている部分もある。東京五輪フライ級金メダルの吉田義勝氏(76)、代表争いをした今泉雄策氏(79)が真の教えについて語った。【取材・構成=荻島弘一、松末守司】


日本レスリング協会の八田一朗会長(50年2月撮影)
日本レスリング協会の八田一朗会長(50年2月撮影)

上下スーツを着て、右の手をポケットに入れながら選手をじっと見つめている。東京五輪フライ級で金メダルを手にした吉田の脳裏に浮かぶ八田の姿だ。常に身だしなみを整え、紳士的に振る舞う。まとうオーラは他を圧倒するが、誰に対しても隔たりなく接する。無口だが、気さく。若手でもベテランでも変わりない、常に選手とともにあるのが八田だった。

吉田は振り返る。「練習は厳しかったがコミュニケーションを取るので相互理解ができていた。私は当時、学生でしたがよく声をかけてもらった。教えは言葉で言えば愛情そのもの。暴力もなかったしパワハラとは全く違うものでした」。八田が参議員議員時代の秘書も務めた今泉もまた「派閥にもこだわらない。年中合宿にも来て公平に見ていたから、よく選手のことを知っていました」と話す。


レスリングの八田一朗会長を振り返る吉田義勝氏
レスリングの八田一朗会長を振り返る吉田義勝氏

八田の教えは実に奇抜だった。ライオンとにらめっこをさせることから始まり、夜中に起こされたり、負けると下の毛をそられたりもした。夢でも金メダルを取れと言われ、食事マナーもたたき込まれた。60年ローマ五輪で大敗した日本のレスリング界を、自国開催だった64年東京五輪で金メダル5個を取るまでに変貌させたのが、この「八田イズム」。スパルタ練習で一見するとパワハラの温床とも捉えられかねない。実際、レスリングがパワハラ問題で揺れた時に指摘する識者もいたが、それにはすべて合理的な理由がある。吉田は「寒中水泳でもまず自分から飛び込んでから『さあ来い』と言う。夜中だってコーチに任せず自分が選手を起こす。食事マナーは海外に行っても気後れしないため。すべて人間力を上げるための教え」と言う。


レスリングの八田一朗会長について語る今泉雄策氏
レスリングの八田一朗会長について語る今泉雄策氏

有名な話がある。東京五輪2カ月前のフライ級の代表争い。吉田は8月の代表最終選考会を兼ねた日本選手権で3連覇中の今泉と引き分けに持ち込み優勝。実績では劣っていたため、再試合することになった。ところが、試合直前に「吉田に決めた」と八田の一声で代表入りした。

当時、最強と言われたアリエフ(ロシア)対策だった。今泉はアリエフに勝ったことがなかったが、吉田は対戦がない。八田が「首をかけて選んでくれた」(吉田)。大英断に誰もが反発すると思ったが、今泉は「私ではメダルを取れても金は取れなかった。納得していました」。その後の合宿は、ともに練習をこなし、五輪3回戦ではトルコ選手と対戦した吉田に助言するなど陰から支えた。5回戦でアリエフに勝って優勝した吉田は、興奮に包まれる会場で第一声、自身には記憶はないが「今泉さんのおかげで取れた」と言った。人間力が試される中、2人は「八田イズム」を実践し、紳士然として金メダルを手にした。

吉田は八田の優しさを忘れないと言う。実は試合直前、風邪をこじらせ寝込んだ。そこに八田が姿を見せると「メダルは諦めた。体の方が大事だ」と告げた。「首をかけてまで選んだのに怒るどころか、心配してくれた。勝利至上主義ならそんなことは言えない。どんな時も覚悟があった。もうやるしかないと思いました」と吉田もまた覚悟を決めた。

今もレスリング界に生き続ける「八田イズム」とは。吉田は言う。「真のアスリートファースト。人間としての成長なくして本当の強さはない。これが本当の教育です」。(敬称略)



★八田氏の強化法と意図★

「夢の中でも勝て」

夢の中でも弱気にならず、強気に攻める精神を養う。普段から勝つことをイメージし続ければ、夢の中でも戦い、そして、勝てるようなイメージが作れるようになる。今で言うイメージトレーニングをこの当時からやっていた。


「マナーを身につけろ

戦後、間もない日本にあって、日本人は欧米人に気後れするところがあった。だからこそ、常に身なりを整え、テーブルマナーを身につけて普段から紳士的に堂々と振る舞えば、見下されることはない。さらに、紳士然としていれば欧米人も認めるようになる。試合でも生活でも、欧米人に対して対等でいられる。一流の選手になるために、試合以外でも一流を身につけさせた。


「下の毛もそれ」

信賞必罰の方針。結果を出せば賞し、ルール違反や約束を破れば当然、ペナルティーを与える。下の毛をそれば、トイレに行った時に必ず自分の罪を思い出し反省する。そうなれば2度とやらなくなるとの教え。


「苦手を作るな」

得意技も普通は利き手の方になるが、左右同じように使えれば攻撃が2倍になる。これを身につけさせるために、利き手と逆の手で食事をさせたり、日常生活から反対の手を使うようにさせた。勝つための可能性を広げる意図があった。


「“ベン”学」

人は誰でも必ずトイレに入るが、その時間を英単語習得に費やす。1日1単語覚えれば、1年で365の単語を覚える。グローバルな人間を作るとともに、どんな時間でも無駄にしないようにとの意識が芽生える。


「起きてるか」

夜中に大音量で音楽をかけ、電気をつけた状態で睡眠させた。夜中に八田自ら「起きてるか?」と声をかけ、起きて「はい」と答えると「よし、じゃ寝ろ」となる。海外などでどんな状況になっても寝られるように。また、とっさに何かがあってもすぐに状況判断ができるように。試合前に緊張しても寝られるようにとの意図があった。


「圧倒的に勝て」

海外では自国選手びいきの判定になる場合がある。接戦だと優位だとしても負ける可能性もある。八田は微妙な判定だったとしても抗議はしなかった。相手を抑え込んで完全フォールで勝つことを求めた。負けた理由を探すのではなく、自身で勝ちをコントロールできるようにするため。


「ライオンとにらめっこ」

2つの理由がある。1つはパフォーマンス。まだマイナーだったレスリングに注目してもらうためで、他の競技がやらない練習をあえて行って周囲の注意を引いた。2つ目は、注目されることでマスコミが集まり、練習で選手は他人の目に触れる。たくさんのカメラのフラッシュを浴びて、写真を撮られる。普段の試合は観客は少なかったが、五輪では多くの観客が詰めかけるため重圧は計り知れない。それに少しでも慣れさせるため。注目され、応援されることで戦うエネルギーに替えた。


◆八田一朗(はった・いちろう)1906年(明39)6月3日、広島・江田島生まれ。早大在学中の29年に柔道部の米国遠征でレスリングに出会う。32年ロサンゼルス五輪に出場し、戦後の46年に日本レスリング協会第3代会長に就任。日本レスリング界の父といわれ、強化の先頭に立ちレスリング強国を築いた。65年には参議院議員選挙に自民党から立候補して当選。プロレスなど格闘技界にも大きな影響力を持ち、スポーツ界の発展に寄与した。83年4月に76歳で死去。