日本のスポーツ漫画はオリンピック(五輪)を契機に発展してきた。終戦直後は野球漫画が中心だったが、多様化したきっかけは1964年(昭39)の東京五輪。「東洋の魔女」ことバレーボール女子日本代表の金メダル獲得によって名作「アタックNo.1」や「サインはV!」が生まれ、競技人口も漫画界の裾野も拡大。名物編集者、綿引勝美氏(73=メモリーバンク代表)の解説で五輪漫画の進化史を追う。【取材・構成=木下淳】

■女子バレーが宿敵ソ連撃破

「アタックNo.1」(C)浦野千賀子/集英社
「アタックNo.1」(C)浦野千賀子/集英社

綿引は「日本の主なスポーツ漫画は、56年前の東京五輪を機に新しいテーマが開拓されました。火付け役は『東洋の魔女』の異名を取った女子バレーボール」と切り出した。国内外で無敗を誇ったニチボー貝塚の選手が全日本の主体となって、宿敵ソビエト連邦を破って金メダルをつかむと人気沸騰。各学校のPTA等を通じて「ママさんバレー」の普及も進み、競技人口は5倍になったとされる。

翌65年、後に野球漫画「巨人の星」(原作梶原一騎)を生む川崎のぼるが「りぼん」(集英社)の別冊付録に「泣かないで もういちど ニチボー・バレー物語」を発表。その2年後、浦野千賀子が「友情の回転レシーブ」を「週刊マーガレット」(集英社)に描いた。日本代表の鉄壁守備を支えた「回転レシーブ」がモデルになった。人気に押され、浦野は翌年にも同誌でペンを握る。それが「アタックNo.1」。それまで少年漫画の専有物だった「スポ根」が少女漫画にも波及し、裾野が拡大した。

■回転レシーブ必殺魔球熱狂

「サインはV!」(C)望月あきら/神保史郎/講談社
「サインはV!」(C)望月あきら/神保史郎/講談社

対抗するように、望月あきらが「サインはV!」(原作神保史郎)を同年から「週刊少女フレンド」(講談社)に描き始めた。綿引は「ライバル誌のマーガレットにフレンドが対抗する形ですが、違いも打ち出した。『アタックNo.1』が学園を舞台にしたのに対し『サインはV!』は実業団がテーマ。『サインはV!』には魔球も登場します」。現実の全日本女子が世界を驚かせ、魔女と称される理由にもなった技術の1つが「木の葉落としサーブ」。そこから着想した「稲妻落とし」や「X攻撃」などで読者の熱狂を誘った。

「サインはV!」より。主人公の朝丘ユミが放つ必殺技「稲妻落とし」(C)望月あきら/神保史郎/講談社
「サインはV!」より。主人公の朝丘ユミが放つ必殺技「稲妻落とし」(C)望月あきら/神保史郎/講談社

望月を取材した綿引は「望月先生は『バレーボールのルールなんて知らなかった』と話していました」と笑顔で明かしつつ「原作の神保さんと工夫を凝らしたことが人気になった秘密でしょう」。当時の少年漫画のヒット要素「スポ根と魔球」を導入したことで同作は人気を博した。バレーボール漫画のヒット2作品はテレビのアニメやドラマにもなり、さらに競技人口が増えるきっかけになった。

東京五輪の女子バレー優勝決定戦(対ソ連)のテレビ視聴率は66・8%。現在も破られていないスポーツ中継の歴代最高記録だ。そこに漫画の力が加わった。「ラブコメ中心だった少女漫画に加わったスポ根。逆境に耐えるだけだった少女漫画の主人公に、自分の力で勝利を勝ち取る魅力を教えたのは、五輪スポーツだったのかもしれません」。

■最初の野球漫画47年野球少年

「バット君」(学童社「漫画少年」に掲載)(C)井上一雄
「バット君」(学童社「漫画少年」に掲載)(C)井上一雄

スポーツ漫画史は1945年(昭20)の終戦直後まで、さかのぼる。「GHQ(連合国軍総司令部)の文化統制で、大衆娯楽の中心だったチャンバラ映画の上映が禁止された。その影響は子供の娯楽にも影響しました」(綿引)。駐留米軍は、集団で行うスポーツであるベースボール普及を推進。第2次大戦の終結から2年が経過した47年、日本で最初の人気野球漫画とされている井上一雄「バット君」が「漫画少年」(学童社)の創刊号を飾った。

「イガグリくん」(C)福井英一/秋田書店
「イガグリくん」(C)福井英一/秋田書店

「普通の野球少年が主人公の作品ですが、ヒットしたことによって野球漫画が数多く描かれていく」。その流れが変わったのは51年だ。禁止されていた学校柔道が随意科目として復活すると、柔道人気が加速。翌52年にはサンフランシスコ講和条約が発効。日本が主権を取り戻し、GHQが撤退した。福井英一の柔道漫画「イガグリくん」が開始。チャンバラも解禁され、54年に武内つなよしの「赤胴鈴之助」(第1回のみ福井英一)が生まれている。

「赤胴鈴之助」(C)武内つなよし/少年画報社
「赤胴鈴之助」(C)武内つなよし/少年画報社

「柔侠伝」(C)バロン吉元/リイド社
「柔侠伝」(C)バロン吉元/リイド社

59年のIOC(国際オリンピック委員会)総会で東京開催が決まると「ジュードー・ボーイ」(原作新井豊、作画九里一平)など柔道漫画が盛況。後に青年コミックで「柔侠伝」(バロン吉元)も話題となった。

■マラソン版の「ジョー」誕生

ちばてつや「走れジョー!!」(「別冊少年サンデー」1964年7月号掲載)(C)ちばてつや/小学館
ちばてつや「走れジョー!!」(「別冊少年サンデー」1964年7月号掲載)(C)ちばてつや/小学館

「週刊少年サンデー増刊オリンピックとギャグまんが特集号」(1968年10月20日号)(C)園田光慶/小学館
「週刊少年サンデー増刊オリンピックとギャグまんが特集号」(1968年10月20日号)(C)園田光慶/小学館

五輪イヤーを迎え、開幕3カ月前の7月には、ちばてつやが「走れジョー!!」を「別冊少年サンデー」(小学館)に発表。マラソンも漫画のテーマに加わった。ちばは、ボクシングのバンタム級で桜井孝雄が東京大会で金メダルを獲得した後の、67年から「あしたのジョー」を連載(原作は高森朝雄=梶原一騎)。作中、桜井の名も登場させている。

週刊少年サンデー増刊オリンピックとギャグまんが特集号に掲載された「東京オリンピック迫力名画集」より。64年東京五輪重量挙げ金メダリスト三宅義信を、さいとう・たかをが描く(C)さいとう・たかを/小学館
週刊少年サンデー増刊オリンピックとギャグまんが特集号に掲載された「東京オリンピック迫力名画集」より。64年東京五輪重量挙げ金メダリスト三宅義信を、さいとう・たかをが描く(C)さいとう・たかを/小学館

続く68年メキシコ五輪の前には「ゴルゴ13」シリーズの作者さいとう・たかをが重量挙げ三宅義信のイラストを「少年サンデー」の増刊号に寄稿するなど、少年誌も五輪人気を後押しした。

週刊少年サンデー増刊オリンピックとギャグまんが特集号に掲載された「東京オリンピック迫力名画集」より。64年東京五輪レスリング金メダリスト渡辺長武を川崎のぼるが描く(C)川崎のぼる/小学館
週刊少年サンデー増刊オリンピックとギャグまんが特集号に掲載された「東京オリンピック迫力名画集」より。64年東京五輪レスリング金メダリスト渡辺長武を川崎のぼるが描く(C)川崎のぼる/小学館

一方で野球人気は根強いものがあり、66年に始まった「巨人の星」がヒット。ここで人気が爆発した「魔球」は他競技の漫画に影響を与え、翌年に発表された「サインはV!」につながる。五輪と野球の漫画がスポーツ界の発展を支えた。

■サッカー番長キャプテン翼

現在、少年誌1誌に1本はあると言っても過言でないサッカー漫画も、五輪が始まりだ。「日本サッカーの父」クラマー氏の指導を受け、アルゼンチンを破った東京大会は8強。この時まだ20歳だった釜本邦茂がエースとなり、68年メキシコ五輪で歴代最高の銅メダルを獲得した。

「赤き血のイレブン」(C)園田光慶/梶原一騎/少年画報社
「赤き血のイレブン」(C)園田光慶/梶原一騎/少年画報社

綿引は「サッカーが漫画のテーマとなるきっかけになりましたね」と話す。まず「サッカー番長」(原作吉岡道夫、作画小島利明)が誕生。翌69年には、高校3冠を達成した埼玉・浦和南をモデルにした「赤き血のイレブン」(原作梶原一騎、作画園田光慶)がブームを加速させた。一時は下降線をたどったが、81年に「キャプテン翼」(高橋陽一)が連載開始。反対に漫画が競技人口を増やすほどの影響力を持ち、96年アトランタ五輪「マイアミの奇跡」や98年のワールドカップ(W杯)フランス大会初出場へ結びついた。

■テニスに水泳スラダン一歩

「スマッシュをきめろ!」(C)志賀公江/集英社
「スマッシュをきめろ!」(C)志賀公江/集英社

「エースをねらえ!」(C)山本鈴美香/集英社
「エースをねらえ!」(C)山本鈴美香/集英社

五輪競技ではなかったものの、皇太子時代の上皇さまと上皇妃美智子さまの出会いがテニスだった縁で、同競技の漫画「スマッシュをきめろ!」(69年、志賀公江)や「エースをねらえ!」(73年、山本鈴美香)が生まれ、水泳も「金メダルへのターン」(69年、原作津田幸夫、作画細野みち子)の名作が出た。「漫画にならないスポーツはない」という綿引の言葉通り裾野は広がる。84年ロサンゼルス五輪体操で金銀銅メダルの森末慎二が、同競技の漫画「ガンバ! Fly high」(94年、菊田洋之)の原作を担当するなど親和性が高まっていった。

「金メダルへのターン」(C)細野みち子/津田幸夫/講談社
「金メダルへのターン」(C)細野みち子/津田幸夫/講談社

「ガンバ! Fly high」(C)菊田洋之/森末慎二/小学館
「ガンバ! Fly high」(C)菊田洋之/森末慎二/小学館

今や万人に受け入れられ「編集者が漫画のテーマとなる新たなスポーツを探すようになっています」(綿引)。単行本の累計発行部数トップのバスケットボール作「SLAM DUNK」(井上雄彦、1億2000万部)やボクシングの「はじめの一歩」(森川ジョージ、9600万部)が証明する。来夏に延期の東京五輪では何が題材になるのか。綿引は言う。「(伏兵のメダル獲得など)人気になった競技が漫画化されることを期待して21年を待ちたいですね」。(敬称略)

五輪とスポーツ漫画の発展史を語ったメモリーバンク綿引勝美代表
五輪とスポーツ漫画の発展史を語ったメモリーバンク綿引勝美代表

◆綿引勝美(わたびき・かつみ)1946年(昭21)8月16日、東京都生まれ。国学院大卒。69年、秋田書店入社。「まんが王」「週刊少年チャンピオン」編集部などで手塚治虫、石ノ森章太郎、藤子不二雄、横山光輝、赤塚不二夫、永井豪らと交流。不知火プロ取締役をへて80年に独立し、編集プロダクションの先駆けで知られる「メモリーバンク」代表に。19年には森下文化センター(田河水泡・のらくろ館=東京・江東区)でスポーツ漫画の展示・講座を企画構成した。ムックやコミックス等の編集・執筆も手掛けている。