本来ならば、今頃は日本中を聖火が駆け巡っているはずだった。直前に迫った地元オリンピック(五輪)へ向けた気運が醸成されているはずだった。新型コロナウイルスの感染拡大によって、東京五輪とともに聖火リレーも先送り。走る予定だった人は、1年後に優先的に参加できるように調整されている。聖火ランナーに、仕切り直しとなった今の心境を聞いた。

■栃木・鹿沼市 石原敬士さん<クレー射撃>

宮司を務める石原敬士さん
宮司を務める石原敬士さん

宮司として神様に終息祈る

栃木・鹿沼市を3月30日に走る予定だった石原敬士さん(77)は笑う。

「私はオリンピックというものにはまったくツイてないんだよね」

宇都宮駅から車で1時間半。ヤマメやアユを狙う釣り人あふれる清流を抜けた先に古峯神社はある。1300年以上の歴史と日本庭園を有する広大な敷地。神社の第84代宮司を務める石原さんは、クレー射撃の選手だった。2度の五輪に出ているはずだった。68年メキシコシティー五輪は競技団体の不祥事、さらに80年モスクワ五輪は「金メダルを取るつもり」と好調を維持していたが、東西冷戦下で日本選手団はボイコットした。2度も五輪の切符を手にしながら、ともにその舞台に立つことはなく幻に。「最もついていない男」とも報じられた。「別にショックとかそういうのではなかったですよ。国が決めたことだから、しょうがない」と振り返る。

そして、今度は聖火ランナーとして迎えた“3度目の五輪”もハプニングに見舞われた。延期については「世界的に新型コロナウイルスが広がっていますので、仕方ないですよね。無理に開催すれば、すべての国の選手が来られなくなってしまいますから」。モスクワ五輪の日本選手団のボイコットは、旧ソ連による前年のアフガニスタン侵攻が発端だった。それにより米国、日本、韓国など50カ国近くが不参加に傾いた。五輪のマークは世界5大陸団結を表す。世界から選手が参加できなければ、その意義は薄れてしまう。今夏の東京五輪開催ならば、参加できない国もあっただろう。だから、1年の先延ばしを「よかったんじゃないですか」と受け止める。

聖火ランナーには、モスクワ五輪で同じように屈辱を味わった日本オリンピック委員会(JOC)の山下泰裕会長から手紙をもらい、携わることとなった。当初は「2キロぐらい」走るものだと勘違いし、「勘弁して」と思ったが、実際は「200メートル」だった。家族にも相談し、引き受けた。神社の敷地内にある射撃場の芝生を週に2、3回ほど「400メートルぐらい」走って、体力を取り戻してきた。「健康のために走るってなかなか難しいものね。延期は、神様がまたトレーニングをできるようにさせてくれたのかなと思っているんです」と話す。

次女の奈央子(45)はクレー射撃スキートで東京五輪代表に決まっている。一緒に生活しているが、指導することはないという。「初めて試合を見に行った」という4年前のリオデジャネイロ五輪は予選落ちだった。「メダルを取れなかったら、射撃はやめて、神主をやりなさい」。そう父として、娘には厳しい言葉も伝えている。

今もなお、世界中でウイルスとの闘いは続く。「聖火が日本中をうまく駆け巡れるようになってくださいと神様にお祈りしています。聖火の火にもコロナを消すような力があれば、それに越したことはないですよね」。終息を願い続けている。【上田悠太】

16年4月、実家の古峯神社の境内で、父敬士さん(右)とはかま姿で記念撮影する娘の石原奈央子さん
16年4月、実家の古峯神社の境内で、父敬士さん(右)とはかま姿で記念撮影する娘の石原奈央子さん
石原敬士さんの現役時代の写真(本人提供)
石原敬士さんの現役時代の写真(本人提供)

◆石原敬士(いしはら・けいし)1943年(昭18)3月7日、栃木県鹿沼市生まれ。東京・国学院高から国学院大へ。古峯神社内に練習場があり、幼少期から父の影響で射撃を始める。世界選手権にも複数回出場。76年モントリオール五輪は、代表となった麻生太郎副総理兼財務相らに敗れ、国内選考で落選した。

■熊本県 野口真未さん<法科大学院生>

ミス・ユニバース熊本代表に選出され、くまモンと撮影する野口真未さん(本人提供)
ミス・ユニバース熊本代表に選出され、くまモンと撮影する野口真未さん(本人提供)
復旧工事が進む熊本城を訪れた野口真未さん(本人提供)
復旧工事が進む熊本城を訪れた野口真未さん(本人提供)

元「ミス」奇麗に復興旗振り

熊本市出身の野口真未さん(23)は、「復興の旗振り役になりたい」と奮闘してきたこの4年間の感謝の思いを胸に地元を走り抜く。新型コロナウイルスの影響で東京五輪が1年延期となっても、現実を受け止めて前を向く。「延期は残念だけど、今は延期になったことで熊本地震からさらに復興した熊本の姿を伝えることができると考えている。多くの方へ感謝の気持ちを込めて、1歩1歩大事に走りたい」。こう決意を新たにした。

熊本大2年だった16年4月の熊本地震で被災し、車中泊や避難所生活を経験した。3日連続で震度6強~7の揺れが襲い「死んじゃうかも…」と恐怖を覚えた。その後のボランティア活動でかけられた温かい言葉に何度も励まされ、「復興する熊本を伝えたい」と考え、17年ミス・ユニバース熊本代表として日本大会に出場した。「陸上スパイクで12年間勝負してきた分、ハイヒールでの勝負は別世界だった」。意志の強い仲間たちと切磋琢磨(せっさたくま)し、容姿や内面の美しさを競うだけでなく、熊本の現状や魅力を伝え続けた。

東京五輪にも強い憧れを抱いていた。小6の時、国立競技場で行われた陸上の全国大会に初出場。走り幅跳びで6位入賞し、本格的に競技に取り組むきっかけとなった。五輪では「思い出の地へ聖火をつなげたい」と夢見て、日本コカ・コーラの聖火ランナーに応募して当選した。「本当にうれしかった。これまでの全国大会とはまた違う、一生に1度しかない晴れ舞台になる」。

現在は弁護士を志し、京大法科大学院で法律を学ぶ。来年5月予定の司法試験に向けて日々猛勉強する傍ら、自宅近くの鴨川沿いを走って大舞台へのイメージを膨らませる。「国体出場を経験した元アスリート、元ミス・ユニバース、熊本代表として、きれいに格好良くベストパフォーマンスができるように準備したい」。才色兼備の23歳が笑顔で陸上の聖地に聖火をつなぐ。【峯岸佑樹】

鴨川の飛び石を渡る野口真未さん(本人提供)
鴨川の飛び石を渡る野口真未さん(本人提供)
熊本大時代に3段跳びに取り組む野口真未さん(本人提供)
熊本大時代に3段跳びに取り組む野口真未さん(本人提供)

◆野口真未(のぐち・まみ)1996年(平8)8月27日、熊本市生まれ。熊本・済々黌高-熊本大-京大法科大学院。小4から始めた陸上でジュニア五輪や国体などの全国大会に出場。走り幅跳びの自己ベストは5メートル54、3段跳びは11メートル67。16年11月にミス・ユニバース熊本代表に選出。趣味は食べ歩きとランニング。特技は書道。好きな食べ物は塩トマトとチーズ。座右の銘は努力の天才になれ。家族構成は両親。168センチ。

■栃木・那須烏山市 箱石シツイさん<現役理容師>

103歳の現役理容師としてお客さんを整髪する箱石シツイさん(家族提供)
103歳の現役理容師としてお客さんを整髪する箱石シツイさん(家族提供)

103歳、町長から頼まれやる気

103歳の現役理容師は、聖火リレー延期決定後も、トーチを手にする自分をイメージして日々トレーニングに励んでいる。

栃木県那珂川町で理容室を営む大正5年生まれの箱石シツイさん。もともと運動神経が良く、幼いころは運動会の駆けっこで「1等賞を取った」と懐かしそうに話す。理容師の修業を積むべく14歳で上京後、戦争による困難を乗り越え、東京や故郷の栃木でハサミ片手に生計を立ててきた。

町長から依頼があったのが昨年夏ごろ。東京五輪の聖火ランナーに応募して欲しいと頼まれた。最初は断っていたが、「お年寄りに元気を与え、町のためにもひと肌脱いで」と説得され、決意。その後、晴れて県内最高齢走者として選出された。

元気の秘訣は自ら考案したオリジナル健康体操。首を前後に倒したり、脚を上下させたりといった動作を、もう30年ほど続けてきた。聖火走者に決まったあとは、近所の体育館周辺を毎日約1000歩ウオーキング。足首に1・5キロの重りをつけて持ち上げるなど、足腰の筋力強化に取り組んできた。

しかしコロナ禍の影響で3月に行われるはずだった聖火リレーは中止に。「決まった日だけがっかりきたけれど、ひと晩寝たらすっきりした」。全国から寄せられた多数の励ましの手紙や電話も後押しとなった。「自分が動ける限りはやりたい。コロナが早く収まることを願っています」。

もう何カ月も、理容室の入り口には「今月臨休」の立て札が。感染症が終息し、お客さんの髪の毛を整える日が来ることを待つ。11月に誕生日を迎え、来年の聖火リレーのときには104歳になっている。【奥岡幹浩】

トーチと同じ重さ1・2キロの棒を持って聖火リレーの練習をする(家族提供)
トーチと同じ重さ1・2キロの棒を持って聖火リレーの練習をする(家族提供)

◆箱石(はこいし)シツイ 1916年(大5)11月10日、栃木県生まれ。理容師修業のため14歳で上京。資格取得後に結婚し、夫婦で都内に理容室を開く。終戦後、夫の戦死公報を受けて故郷で理容室を開店。現役理容師として活躍する。昨年暮れに東京五輪の聖火ランナーに選ばれた。

■千葉・南房総市 田村悦智子さん<女子バレー>

76年モントリオール五輪バレーボール女子で獲得した金メダルを掲げる田村(旧姓・前田)悦智子さん(撮影・平山連)
76年モントリオール五輪バレーボール女子で獲得した金メダルを掲げる田村(旧姓・前田)悦智子さん(撮影・平山連)

「新東洋の魔女」経験生かす

高い打点を生かしたスパイク「稲妻おろし」で名をはせた新東洋の魔女の1人は、聖火リレーに向け練習を続けている。1976年モントリオール五輪バレーボール女子金メダリストの田村(旧姓・前田)悦智子さん(68)は、7月2日に千葉県南房総市内を走る予定だった。「ベストコンディションで臨めるよう頑張りたい」と意気込んでいる。

聖火リレーで走ることは、田村さんの生きがいになっている。千葉・館山市のスポーツ大使や日本バレーボール協会の評議員を務めるかたわら、週2回ほど自宅周辺のウオーキングを欠かさない。

本大会1年延期について、「アスリートはみんな状況が同じだと思っているはずだけど、海外の選手は本当に来日できるのかな」。聖火リレーの延期には「自分の身体と向き合う機会につながっている」と喜んでいる。

現役引退後は左足の痛みに悩まされた。右足や肩、腰などに負担が増し、一時は歩くのもつらかった。だが2度目の東京五輪が、再び走るきっかけになった。12歳の時に見た64年大会の興奮を思い返し、自国開催に関わりたいと聖火ランナーに応募。選出を知った息子から「誇りに思う」とエールを受けた。田村さんは「期待を一身に受けているんだと実感しました」と目にうっすら涙を浮かべた。

リレー本番では、モントリオール五輪の経験が生きると信じる。故山田重雄監督のもと「金」を目指し、予選から決勝まで失セットなしの圧倒的な強さを見せつけた。「目標があると頑張れる。元アスリートとしてみっともない姿は見せられない」。沿道に集まった家族や友人を元気づける走りを見せるつもりだ。【平山連】

◆田村悦智子(たむら・えちこ)旧姓前田(まえだ)。1952年(昭27)1月31日生まれ、東京都大田区出身。64年東京五輪で金メダルの東洋の魔女に憧れ、中学1年でバレーボールを始める。東京・トキワ松高卒業。三洋電機入部後、ジャンプ力を武器に頭角を現す。76年モントリオール大会では、「稲妻おろし」で得点を量産、金メダル獲得に貢献。173センチ。

■青森・弘前市 斎藤春香さん<ソフトボール>

日立斎藤監督(日立提供)
日立斎藤監督(日立提供)

「はるか夢球場」地元のため

ソフトボール競技が採用された96年アトランタ五輪から3大会連続で出場、08年北京では監督として金メダルを獲得。4大会すべてを知る斎藤春香さん(50=日立監督)は、競技が13年ぶりに復活する東京五輪の聖火リレーで地元青森・弘前市を走る。

要請を受けた時には「本当に私でいいのか」と思ったが「光栄なことだし、一生に1度あるかないか。この上ない喜び」と快諾した。延期になったが「仕方ないなと。スポーツが大事なことは分かるが、先が見えない中での生活。残念だが命には代えられない。延期で本当に良かったという思い」と胸中を明かした。

地元への愛着は強い。11年に弘前に戻り、スポーツの普及に努めた。12年には野球場の愛称が、公募で名前にちなんだ「はるか夢球場」と命名された。ソフトボールはもちろん、17年には県内29年ぶりにプロ野球の1軍戦も行われた。「地域が活性化できるのはいいこと。弘前で生まれて本当に良かったです」と感謝する。

08年北京五輪では監督として日本に初の金メダルをもたらした。06年就任当初から「優勝できる」という自信があった。「勝てると思わないと受けていない。五輪に出場して、戦術や戦略が自分の中にあった」。

選手時代からともに戦ってきた上野と山田は、来年の東京五輪を見据える。「ソフトボール界を背負ってきた大ベテラン。頑張って欲しい」とエールを送る。

指揮を執るチームには山田をはじめ、代表選手も所属している。9月からリーグ戦が始まる。昨年は監督復帰1年目で守備力を強化したが9位だった。「得点が入りづらいスポーツ。そこを打破したい。一流投手から点を取るのは魅力。スピードとパワーあふれるチームにしたい」。チームの強化が、日本代表のためになることを知っている。【松熊洋介】

08年8月、北京五輪ソフトボールで米国を破り金メダルを獲得。後方左端はガッツポーズの斎藤監督
08年8月、北京五輪ソフトボールで米国を破り金メダルを獲得。後方左端はガッツポーズの斎藤監督

◆斎藤春香(さいとう・はるか)1970年(昭45)3月14日、青森県生まれ。弘前中央高卒業後、88年に日立ソフトウェア(現日立)に入社。04年に同チームの選手兼監督となり、05年に引退。06年日本代表監督に就任。11年に日立を退社し、地元・弘前でソフトボールの普及に努める。その後ソフトボール協会の常務理事や日本オリンピック委員会の理事を経て19年2月から日立監督に復帰。