もうすっかり疲れ切ってしまって走れません-。愚直に、いちずに人生を駆け抜ける円谷幸吉にとって、走りを断念することは、存在意義を否定されるものだった。耐えようもない苦悩、孤独感から自分を解放するすべとして選んだのが、自死。挙国一致で取り組み、何よりの国威発揚の場となった五輪のメダルが悲劇を生んだ。そんな男が50年前、確かにいた。命の限り、走り抜いて-。(敬称略)

 真冬の福島。凍える寒さ以上のものを誰もが胸に抱えていた。68年1月14日。東京で荼毘(だび)に付された地元の英雄が、須賀川駅に戻ってきた。遺骨を抱く68歳の父幸七(故人)、遺影や位牌(いはい)を手にする兄たち。陸上自衛隊郡山音楽隊が葬送曲を奏でる中、42歳の長兄敏雄(故人)が、出迎えた5000人もの地元民に声を振り絞る。無言の弟の胸中を代弁するものだ。「幸吉がたった今、帰ってきました。皆さまのご期待に沿えず、本当に申し訳ありません」。

 その5日前。9日正午のNHKニュースがトップで伝える。円谷自殺-。陸上自衛隊朝霞駐屯地内にある自衛隊体育学校(自隊校)宿舎の自室。鮮血が流れる床にかみそり、壁にも飛び散った跡。前日から姿を見せないことを不審に思った同僚が部屋に入り発見した。検視により死亡推定は8日。右頸(けい)動脈の傷は深さ3センチに達していた。

 コクヨの便箋に感謝や謝罪を込めた遺書は、テープで机に貼り付けてあった。その遺書にも鮮血の跡。孤独感はいかばかりであったか。作家たちは「千万言尽くせぬ哀切」(川端康成)「傷つきやすい雄雄しい、美しい自尊心による自殺」(三島由紀夫)「自殺というよりは他殺であった」(寺山修司)と評した。

 最後の里帰りとなった68年正月。食卓に親兄弟が持ち寄ってくれた一品料理においっ子、めいっ子らの名前。追い詰められた「競技者」から「末っ子」としての素顔が、最後に記される。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました-。

 東京五輪を戦った盟友が唇をかむ。福岡合宿中の急報に寺沢徹(79)は「そこまで追い込まれていたのか…。一般企業ならそこまでの責任感は…」。君原健二(73)も「友人として声をかけるべきだった。救える命だったかも」と悔いる。陸連合宿中の伊豆大島には「割腹した」の誤情報が流れるなど混乱を極めた。

 円谷を、今でも「円ちゃん」と親しみを込めて呼ぶ男がいる。練習パートナーを務めた宮路道雄(77)。7日朝、偶然にも自隊校で顔を合わせた。「朝9時半ぐらいでした。一緒に走りながら『今年もよろしく』『体の調子はどう』とか。最後に『今年もよろしくお願いします』っていうから、まさか…」。穏やかな顔で眠る円谷に「あの時なぜ、相談してくれなかったんだ。なぜ死ななきゃいけなかったんだ」と宮路は語りかけ「腹が立って涙も出なかった」と9日の通夜を思い返す。

 メダル獲得後、円谷の境遇は暗転した。自衛隊員、人間、そして競技者としても。関係者が口をそろえる最大の要因が、ある人事異動だ。コーチ畠野洋夫(故人)との二人三脚に理解を示していた、自隊校校長の退任。後任は自衛隊員としての規律を重んじ、練習などに理解を得られない。

 婚約破談。「あれさえなければ…。式場も温泉への新婚旅行も決まり、段取りは整っていたのが…」。今も悔しそうな円谷四男の喜久造(82)。君原も、東京五輪前年の海外遠征で円谷がダイヤモンドの指輪を買う姿を見たという。その結婚を「メキシコがあるのにまかりならん」と、新任校長が破談に追い込んだ。

 さらに結婚許可を必死に迫る畠野は、札幌に左遷される。コーチ不在。そのころ円谷は、福岡・久留米の幹部候補生学校で半年の教育を受けている。陥った練習不足をカバーすべく、練習過多の悪循環。抑えるコーチ役の畠野はいない。持病が悲鳴を上げた。

 それでも円谷は必死だった。67年5月の全日本実業団には、2日間で長距離4レースに出場。最後の2万メートル後、君原に「メキシコで金メダルを取るのが、私と日本国民の約束」と吐露している。だが状況は悪化。8月には腰のヘルニアとアキレスけんの手術のため3カ月、入院した。自隊校に出した手紙には「1カ月は天井を向いたままの生活。立つことさえ困難」と記している。この時点で円谷の目に、メキシコの空は描けていない。それでもあの正月明け、約3年前に誓った「国民との約束」が円谷の脳裏を離れなかった。

 五輪当日、民放で解説した田中茂樹(83)は「円谷君の気持ち、よく分かる。自分もあの時、川に飛び込んだかも」と、19歳で日本人初参加初優勝を遂げた51年ボストンマラソンを回顧する。広島出身で「アトムボーイ」(原爆の子)と現地でやゆされ、渡航費約70万円は県民らが工面。終戦間もない時代に国の誇り、期待を背負わされ命がけで走ったボストン。「優勝しなければ日本に帰れなかった。でも、死ぬことはなかったんだ、円谷君は」と話す。

 56年ぶりに聖火が東京にともる。喜久造は「時代が違ったんです。荷馬車から乗用車に変わってすぐの時代でしたから」と言う。「50年たっても幸吉の名前が出るのは幸せなことです」とも。あの時代、円谷幸吉という男がいた。父の教えを守り、決して後ろを振り向かず、走ることにいちずだった男が、走れないことを悟ったとき、人生のフィニッシュラインを駆け抜けた。【渡辺佳彦】

(2014年8月6日付本紙掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。