<東京五輪・パラリンピック組織委員会 国際渉外・大会競技運営局長 村里敏彰(63)>

 五輪との出会いは、72年札幌大会になります。オーストリア・インスブルック大に留学していたこともあり、スイスチームのアシスタントコーチとして札幌に戻ったのです。スイスはアルペンだけで3つの金を含む6個のメダルを獲得。チームは盛り上がりました。当時20歳。五輪の魅力に取りつかれました。

 帰国後はスキー教室、スポーツ関連の企画会社を運営していましたが、五輪への強い思いは消えません。93年アルペン世界選手権を岩手・雫石に誘致することを決意。約120人の国際連盟理事を回って投票を依頼しました。無理は承知でしたが「地元岩手で、五輪のように、世界のパワーを集めたイベントをしたい」との情熱で誘致を成功させたのです。

 世界選手権の大会運営は簡単ではありません。吹雪、雨、雪、地震、雷。日程は再三変更され、何度ももうだめかと思いました。それでも困難を乗り越え、何とか成功裏に終えることができました。この経験は糧になります。アシスタントスポーツディレクターとして迎えた98年長野五輪。滑降のスタート地点の変更問題が起きます。決着は開幕2カ月前と長引きましたが、世界選手権の経験があったため、焦らず乗り切ることができました。現在、20年東京五輪・パラリンピック会場の見直しを進めています。過去の経験を生かし、よりよい計画にしていきたいと思っています。

 20年東京五輪・パラリンピックの大会ビジョンのコンセプトに「すべての人が自己ベストを目指そう」というものがあります。「自己ベスト」は自分が好きな言葉です。自己ベストを目指すのはアスリートだけではありません。自分たちスタッフも自己ベストの仕事をする。五輪にかかわるすべての人が、そんな思いを共有できれば、最高の五輪になるはずです。(2014年10月22日東京本社版掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。