コロナ禍で1年延期された東京五輪が今日23日、開幕する。日刊スポーツでは緊急事態宣言下で大半が無観客という異例ずくめの大会を、さまざまな識者や、元オリンピアンらが独自の視点で語るコラム『Tokyo eye』を随時掲載します。第1回は陸上の男子400メートル障害で五輪3大会に出場し、現在は執筆活動や会社経営などを通じて情報発信を続ける為末大氏(43)が寄稿した。

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陸上に夢中になり始めた小学5年生のある日、急に膝が痛くなった。走ると痛い。遊んでいても痛い。走れずヤケクソになりそうだった私を引っ張って、母は整形外科を何カ所も回った。どこに行っても「ただの炎症ですね」と言われ続けたが、ある病院のレントゲンで剥離骨折だったことが分かった。小さな手術を受け、回復に向かった。

中学に入ってから県の大会で優勝するようになった。ある日、家のご飯が変わったことに気がついた。なんとなく食べ物の色の種類が増えた。両親の寝室に小さな本棚があり、そこに「スポーツ選手の栄養学」という本が加わっていた。

高校までは通学で1時間少しかかった。朝練習が7時からあったから、家を出るのは6時少し前だった。毎日、陸上部で練習をするからおなかがすく。高校の3年間、母は毎朝5時に起きてお弁当を作っていた。

中学で私は全国で1番になった後、ケガの影響もあって高校でスランプに入った。周りの期待も大きかっただけに失望も大きく「あいつは終わった」という声も聞こえるようになった。食事中にもう「陸上なんてやめたい」と口走ったことがある。静かに下を向いていた父と母は、どっちが言ったか忘れたけれど「やめたかったらやめてもええんよ」と言った。

日本代表になってから、地元で顔と名前が知られるようになった。応援をする人が増えていき、父と母は「大がお世話になっています。ありがとうございます」とお辞儀をすることが増えた。その父は、私が25歳の時に喉頭がんで亡くなった。1つも教訓らしいことを言わなかった父が、亡くなる前に母を通じて私に言ったことは「やりたいようにやれ」だった。吹っ切れた私は、会社をやめてプロの選手になった。

アスリートが五輪に行くためには、たくさんの支援が必要になる。有名になってからは支援を得られやすいが、そうなる前が大変だ。練習には時間がかかり、試合と器具にはお金がかかる。家庭がいろんなものを犠牲にしながら支援してくれたという選手もいた。五輪は選手にとっても特別だけれど、家族にとっても特別な思いを持っている。

人が人を応援するのはなぜだろうか。人はそこに何かしらのつながりを見いだすから応援する。母校が一緒だから。同じ地域の出身だから。同じ年だから。つながりの深さがその選手を応援する理由を特別にする。そういう意味で、家族ほど特別な思いを持って応援する人たちもいないだろう。

今回の日本代表選手総勢582人、その数だけ物語がある。グラウンドに立っているのは1人のアスリートだけれど、そのアスリートを育て支えた家族がいる。五輪に向かう前の選手と家族の会話は驚くほど日常的でそっけない。いろんな思いが詰まりすぎていて、感謝するにも、応援するにも、適切な言葉がなかなか見つからないからだ。

いよいよ五輪が開幕する。全てのアスリートにホームタウンがあり、家族がある。今回は無観客だから、家族はどこでどんな表情で試合を見守るのだろうか。選手たちも家族も、この1年間大変な状況に置かれていたが本当によく耐えた。選手たちと同時に家族の方もたたえたい。あとは悔いのないように、自分らしく試合をしてくれるのを願うばかりだ。【為末大】

元陸上選手の為末大氏
元陸上選手の為末大氏

◆為末大(ためすえ・だい) 1978年(昭53)5月3日、広島市生まれ。広島皆実高-法大。400メートル障害で世界選手権で2度(01年、05年)の銅メダルに輝く。五輪は00年シドニー、04年アテネ、08年北京と3大会連続で出場した。自己ベストの47秒89は、現在も日本記録。12年6月の日本選手権で現役を引退。現在は執筆活動、会社経営を行う。スポーツとテクノロジーを掛け合わせた事業展開や、コンサルティングサービスを行う「Deportare Partners」代表。新豊洲Brilliaランニングスタジアム館長、Youtube為末大学(Tamesue Academy)も運営。