【履正社から東洋大姫路 岡田龍生の流儀〈2〉】無名校に持ち込んだ姫路メソッド

履正社(大阪)を夏の甲子園優勝に導いた岡田龍生監督(60)が、22年3月で退任し、4月から母校・東洋大姫路(兵庫)で指揮を執っています。履正社を全国有数の強豪校に作り上げ、オリックスT―岡田やヤクルト山田らプロにも人材を送り出しました。35年の在任期間を5回連載で振り返ります。(敬称略)

高校野球

教え子の髪にも、白いものがまじるようになった。岡田龍生が履正社の教員になり、硬式野球部監督に着任した1987年(昭62)春。ともに履正社のユニホームに袖を通した生徒は、今は50歳を過ぎた熟年世代になった。顔を合わせて酒を酌み交わしたとき、教え子が苦笑しながらこんなことを口にした。「『部活をやめさせて下さい』って監督に言いに行くことすら、怖くてできなかった」。

◆岡田龍生(おかだ・たつお)1961年(昭36)5月18日、大阪市生まれ。東洋大姫路(兵庫)では正三塁手だった79年センバツで4強。日体大から社会人の鷺宮製作所を経て、85年から桜宮(大阪)のコーチを務め、87年春に履正社監督に着任。夏は97年、春は06年に甲子園初出場。14、17年とセンバツ準優勝。19年の夏に星陵(石川)を下し優勝。主な教え子はオリックスT―岡田、ヤクルト山田哲、阪神坂本ら。保健体育教諭。

★「怖かったと思うんです」

卒業して何十年もたって、ようやく恩師に言えた本音を、岡田は胸に受け止める。

「それを聞いて、本当に申し訳なかったなと。反抗したりはしなかった。それくらい、ぼくのことが怖かったと思うんです。毎日が苦痛やったんやろなと」

野球に精通した指導者がおらず、ラグビー、サッカー、弓道など他のクラブとグラウンドを分け合いながら細々と活動を続けていた硬式野球部。そこに、教員と野球部監督になる夢をかなえ、選手育成に血をたぎらせる26歳の指導者がやってきた。

野球部員の日常は激変した。

「平日は、グラウンドを使えない日が結構あったんです。それなら、と学校から緑地公園まで走って行ったり、みんながクラブ活動を終わるまで待っていたり。そのころは当然、照明なんかないんで、工事現場の電球みたいなのを買ってきて、一部分だけ照らしてやってました」

★自転車通学が大半

大阪・豊中市の学校から約1・7キロ離れた同市内の服部緑地公園まで走ったり、他のクラブの活動終了を待った。当時は、下校時間の遅さをとがめられることもなかった。

「厳しくやっても、どうのこうの言われる時代じゃなかった。夜10時くらいまではやってましたね。基本、みんな自転車とかで帰る子ばっかりなんで、電車を気にする必要はなかったんで」

母校の兵庫・東洋大姫路でたたき込まれた厳しさが、当時の指導者・岡田のスタンダードだった。

1979年4月5日、選抜準々決勝の池田戦。三塁手の岡田は打球を右足に当て倒れ込む

1979年4月5日、選抜準々決勝の池田戦。三塁手の岡田は打球を右足に当て倒れ込む

「めちゃくちゃ練習してたんで。基本、ぼくらが高校のときは、練習量は日本一や! みたいな流れでやってたじゃないですか。練習したら勝てる! 練習こそ、すべてや! って」

岡田自身の生活も、野球を軸に回っていた。前任校の桜宮の2年目に結婚し、履正社に赴任したころにはすでに父親だった。

「でも、子どもらに会うことはほとんどなかったですね。ぼくが帰ったら、子どもたちは寝てる。朝は他のクラブはやらないから、ノックは朝にやる。朝練をするから朝出ていくのも早いから、子どもらはまだ寝てますよね。ずっとそんな生活でした」

猛練習は、監督1年目の夏の大阪1勝で実を結んだ。

古代の王国トロイを発見したシュリーマンにあこがれ、考古学者を目指して西洋史学科に入学するも、発掘現場の過酷な環境に耐えられないと自主判断し、早々と断念。
似ても似つかない仕事に就き、複数のプロ野球球団、アマ野球、宝塚歌劇団、映画などを担当。
トロイの 木馬発見! とまではいかなくても、いくつかの後世に残したい出来事に出会いました。それらを記事として書き残すことで、のちの人々が知ってくれたらありがたいな、と思う毎日です。