【天理・本橋雅央氏1】右肘と引き換えの優勝旗「悔いない」/消えたエースたち〈1〉

高校球児の春が真っ盛りです。3月18日には第95回記念選抜高校野球が開幕しました。近年、球児を守る改革が進む。2020年から投手の1週間500球以内の球数制限を導入するなど、体調管理の意識が高まり、高校野球の質も変わりつつあります。かつて甲子園では、活躍後に故障で投手生命を断たれた快腕が後を絶ちませんでした。「消えたエース」たちが抱いた思いや、その後を4回連載でクローズアップします。第1回は、86年夏の甲子園で天理(奈良)を優勝に導いた本橋雅央氏(54)が、37年前に下した決断に迫ります。(敬称略)

高校野球

1986年夏 4試合で467球

あの1日だけ、エースは右肘の痛みを忘れた。西日が差し込む甲子園のマウンド。1986年(昭61)8月21日、天理の本橋雅央は仲間と、もみくちゃに抱き合い、初優勝を喜んだ。

右腕には赤黒くなった140個のおきゅうの跡があった。4試合で467球。肘は悲鳴をあげ、限界を超えていた。それでも、大舞台の決勝はなぜか、苦痛を感じなかったという。

栄光の代償は大きかった。夏の甲子園の頂点に導いた優勝投手はもはや、投げられなくなっていた。

◆本橋雅央(もとはし・まさお)1968年(昭43)7月6日、大阪・東大阪市出身。小4の時、少年野球「バファローズ」に加入し、投手兼中堅で4番。若江中では東大阪シニアでもプレーし、投手だった。天理では86年センバツに2試合で先発登板し、2回戦敗退。同年夏の甲子園は4試合に登板して2完投、467球を投げた。エースとして優勝に導いた。早大に進学後、公式戦登板は1試合。現役時代は178センチ、68キロ。右投げ右打ち。 

37年がたった。本橋はいまもなお、幾度となく周りから問いかけられる。

「投げなかった方がよかったと思いますか。投げなければ、好きな野球をもっと続けて、プロ野球選手になって、もっと活躍できたとは思いませんか」

松山商との決勝で力投する天理・本橋雅央。すでに右肘は悲鳴をあげていた=1986年8月21日

松山商との決勝で力投する天理・本橋雅央。すでに右肘は悲鳴をあげていた=1986年8月21日

甲子園優勝後、早大に進学した。負傷した右肘を治すため、国内有数の大学病院や整体師、マッサージ治療院など、30軒ほど訪ね歩いた。天理の橋本武徳監督から心配する電話が掛かってきたこともある。「どうしてんねん。元気にしてるか」。

だが、快復には向かわなかった。リーグ公式戦は1試合に投げただけ。失意も重なり、1年秋にはグラウンドから遠ざかった。野球を辞めた。

本橋が押しも押されもせぬエースに飛躍したのは、高校3年の春だった。球威は増し、最速146キロを計測。スライダーやカーブを使い、センバツで白星に導いた。

プロ野球が2球団、興味を示していると人づてに聞いた。進境著しかった。

準々決勝「ちょっと無理です」

だが、好調は長く続かない。春の近畿大会で右肘に違和感が出た。「虫歯の痛さと一緒。投げていたら痛みがなくなっていく。でも肘が、ちょっとおかしい…」。夏の奈良大会で投げるたび、肘がうずく間隔が短くなっていった。

激痛は突然やってきた。

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1979生まれ。京都府出身。2003年入社で阪神を中心にカバー。
広島担当、プロ野球遊軍をへて、2021年からアマチュア野球担当。
無類の温泉好きで原点は長野・昼神温泉郷。