【天理・本橋雅央氏2】聖地で断たれた投手生命 後輩たちへ/消えたエースたち〈2〉

1986年(昭61)夏の甲子園で天理を初優勝に導いた本橋雅央氏(54)は大会中に悪化した右肘痛が回復せず、大学1年秋に野球を断念しました。高校野球は20年から投手の球数制限を設けるなど、選手を守るしくみを整えてきました。連載第2回では、本橋氏がみずからの体験を交えて、高校野球のあり方に思いを寄せます。(敬称略)

高校野球

「終わって治療したらなんとか…」

あの日から37年が流れたいまも、天理は甲子園の常連校だ。達孝太(現日本ハム)や戸井零士(現阪神)を輩出するなど、高校野球の強豪として存在感を示している。

エース本橋を中心に86年夏の甲子園で頂点に立ったナインは、いまも交流が続く。あのときの高校3年生はLINEのグループをつくり、天理が勝てば同級生の中村良二監督の労をねぎらう。

「良ちゃん、おめでとう!」。優勝投手の本橋もテレビで母校の後輩を応援するのが楽しみだ。

初優勝を決め肩を組みながらインタビューに答える中村良二主将(左)と本橋雅央。今でもLINEで交流が続いている=1986年8月21日

初優勝を決め肩を組みながらインタビューに答える中村良二主将(左)と本橋雅央。今でもLINEで交流が続いている=1986年8月21日

37年前の夏、甲子園の決勝で松山商(愛媛)に勝ったあと、本橋は治療に明け暮れた。大会中、右肘を痛めながら無理を重ねて登板した。甲子園は平常心を失わせる魔性がある。傷ついた優勝投手も述懐する。

「正直、あそこでやめるという選択肢は自分のなかにまったくなかった。次、野球をできなくなってもいいから、この1試合に投げたい気持ちの方が強かったですね、圧倒的に。終わってから治療したら、何とかなるかなという思いもちょっとありました。でも、結局、治らなかったです」

優勝の翌朝、天理の初優勝を伝えるスポーツ紙に見出しが躍った。「本橋君のガッツには脱帽だよ」。痛みに耐えて投げる姿は美談になっていた。

1986年8月22日の日刊スポーツ東京版3面。「おキュウ、注射…痛みより喜び」

1986年8月22日の日刊スポーツ東京版3面。「おキュウ、注射…痛みより喜び」

本橋が野球を断念したあとも、甲子園のマウンドで傷つくエースは後を絶たない。まだスポーツ医学の知見も乏しい時代だった。肘を治すため、病院を訪ね歩いた本橋は当時の実情を振り返る。

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1979生まれ。京都府出身。2003年入社で阪神を中心にカバー。
広島担当、プロ野球遊軍をへて、2021年からアマチュア野球担当。
無類の温泉好きで原点は長野・昼神温泉郷。