【沖縄尚学・比嘉公也監督】ベンチから見た優勝が指導の原点/消えたエースたち〈4〉

沖縄尚学が、1999年(平11)センバツで春夏通じて甲子園初優勝を果たしました。立役者になったのが、06年から同校を率いる比嘉公也監督(41)です。99年当時、エースとして準決勝のPL学園(大阪)戦で延長12回を212球の熱投。だが、左肘の状態が悪く、決勝は投げませんでした。当時の金城孝夫監督の決断でした。あのときに見た光景は、指導者としての原点になりました。08年には監督でもセンバツV。連載第4回は投手としての挫折を糧とした、比嘉監督の思いに迫りました。(敬称略)

高校野球

西武与座、阪神岡留の例

これからの高校野球界をリードする気鋭の実力派監督だ。41歳、比嘉公也。強豪の沖縄尚学を率いて18年目。日々、生徒の気持ちを前に向かせようと工夫する。プロ入りした先輩を例に挙げて、ナインにこう伝えてきた。

「ライオンズの与座は高校のとき3番手、4番手。タイガースの岡留もエースじゃなかった。そういう子たちがプロに行く。高校で2番手3番手の投手が社会人で一線級で投げている」

◆比嘉公也(ひが・こうや)1981年(昭56)6月29日、沖縄・名護市生まれ。久辺小2年から「辺野古タイガース」で野球を始める。久辺中進学後、外野手から投手に転向した。沖縄尚学では2年秋からエースとなって、98年秋の県大会から九州大会で23イニング連続無失点を記録する活躍などでチームをセンバツに導いた。99年センバツ優勝に貢献した。同年夏の甲子園も2試合に先発したが2回戦敗退。愛知学院大をへて、06年に同校監督に就任。甲子園通算8度出場で11勝6敗。指揮官として初出場だった08年センバツ優勝に導いた。8強進出も2回。22年はU18W杯日本代表のコーチも務めた。175センチ、62キロ。左投げ左打ち。 

与座海人は昨年、西武でブレークの10勝。阪神の岡留英貴は1軍登板こそないが、2年目の今季は中継ぎで1軍を狙う。

「(エースは)1人、たまたま成長が早かっただけかもしれない。いまの一番の評価が今後も続くか分からない。あきらめないでやる子は絶対にいる。いまは芽が出ないだけで」と力説する。将来を見据えて、向上心を引き上げる。

与座(左)は岐阜経済大→西武、岡留は亜大→阪神へと羽ばたいた。高校でエースではなかった選手が一線級へ

与座(左)は岐阜経済大→西武、岡留は亜大→阪神へと羽ばたいた。高校でエースではなかった選手が一線級へ

準決勝vsPL 12回212球完投

比嘉監督は甲子園初采配の08年センバツで、いきなり母校を優勝に導いた。東浜巨(現ソフトバンク)が活躍。5試合のうち4戦完投で、エース頼みの戦いになったが、理想とする投手起用はちがうのだという。

「僕たちはもともと継投なので。球数制限が1人にのしかかるよりも、投手全員で分散させたほうが絶対にいい。そういう発想になってほしいですよね」

初出場のセンバツで東浜巨(右)の活躍もあり、いきなり優勝=2008年3月

初出場のセンバツで東浜巨(右)の活躍もあり、いきなり優勝=2008年3月

高校野球では、20年から1週間500球以内の球数制限が課せられ、絶対的なエース1人に寄りかかる戦い方が消えつつある。沖縄尚学が目指すように、甲子園でも複数投手の継投で戦うのが主流になってきた。

比嘉監督は「勝つことだけを考えたら、そういう(エース頼みの)使い方もありますが、将来、投手をつぶしてしまったらと思うと、本当に指導者の責任は大きい」と背筋を正す。

大会を勝ち進んだエースは肩や肘がボロボロになって、投手生命を断たれるケースが続発していた。

複数の投手を育てる。その「原点」は高校時代にあった。

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1979生まれ。京都府出身。2003年入社で阪神を中心にカバー。
広島担当、プロ野球遊軍をへて、2021年からアマチュア野球担当。
無類の温泉好きで原点は長野・昼神温泉郷。