【沖縄水産・大野倫氏】773球「悲劇のエース」の指摘/消えたエースたち〈3〉

1991年(平3)夏の甲子園で沖縄水産を準優勝に導いた大野倫氏(49)は「悲劇のエース」と呼ばれました。大会中、右肘を痛めながら6試合773球を投げて投手生命を断たれました。野手として巨人、ダイエーでプレーし、19年からNPO法人「野球未来.Ryukyu」で子どもに野球普及活動を行っています。昨年、設立されたジャパンウィンターリーグのGMにも就任。連載第3回は幅広く野球に携わる大野氏が冷徹な目線で、高校野球のあり方を語りました。(敬称略)

高校野球

1991年夏 全6試合完投

肌を焼く陽光が照りつける沖縄で、中学1年生だった大野少年はテレビにくぎづけになった。86年夏の甲子園。ブラウン管のなかには右肘を痛めながら投げ続ける、天理(奈良)の本橋雅央がいた。

「大丈夫かな。かわいそうだな」。優勝に導いたが、のちに、野球を断念したエースだった。

◆大野倫(おおの・りん)1973年(昭48)4月3日、沖縄・うるま市生まれ。沖縄水産で90、91年の夏の甲子園準V。甲子園通算12試合で打率4割4分2厘。91年は6試合完投で53回、773球を投げた。九州共立大では2年春から4番で、大学通算18本塁打。95年ドラフト5位で巨人入団。00年にプロ初本塁打。同年オフに吉永幸一郎捕手とのトレードでダイエー移籍。02年引退。プロ通算成績は24試合出場の31打数5安打、打率1割6分1厘、1本塁打、2打点。10年に中学生硬式野球チーム「うるま東ボーイズ」を設立し、監督として指導する。22年にジャパンウィンターリーグのGMに就任した。プロ現役時代は185センチ、85キロ、右投げ右打ち。 

やがて大野は地元の雄、沖縄水産に進み、聖地を目指した。投打ともに抜群のセンスを発揮した。2年夏は、野手としてクリーンアップの一角で活躍。甲子園準優勝に導く主力として存在感を示した。

3年はエースで4番。チームの生命線だった。唯一無二の立ち位置が、91年夏に甲子園で悪夢をまねく要因になった。

大野は32年前の記憶をたどる。「監督の方に批判の矛先が行ったので、不本意でした。ケガしている選手を4連投させたという…。あくまで僕の意思だったんです」。

8月8日の北照(北海道)戦が初陣。決勝までの6試合すべてに先発して全試合完投した。18日の3回戦宇部商(山口)戦からは、4日連続4連戦を投げ抜くすさまじさだった。

◆8月18日3回戦 宇部商 9回117球5失点

3回戦、宇部商に7-5で勝利。6回に2ランを浴び、渋い表情=1991年8月18日

3回戦、宇部商に7-5で勝利。6回に2ランを浴び、渋い表情=1991年8月18日

◆19日準々決勝 柳川 9回123球4失点

準々決勝、柳川に6-4で勝利。最後の打者を三振に打ち取り、両手を突き上げ雄叫びをあげる=1991年8月19日

準々決勝、柳川に6-4で勝利。最後の打者を三振に打ち取り、両手を突き上げ雄叫びをあげる=1991年8月19日

◆20日準決勝 鹿児島実 9回148球6失点

準決勝、鹿児島実に7-6で勝利。一打逆転サヨナラのピンチを脱しゲームセットの瞬間、苦闘を物語る表情=1991年8月20日

準決勝、鹿児島実に7-6で勝利。一打逆転サヨナラのピンチを脱しゲームセットの瞬間、苦闘を物語る表情=1991年8月20日

◆21日決勝 大阪桐蔭 8回158球13失点

大阪桐蔭に8-13で敗れ、準優勝。マウンドの砂を袋に詰める=1991年8月21日

大阪桐蔭に8-13で敗れ、準優勝。マウンドの砂を袋に詰める=1991年8月21日

大野は2回戦の明徳義塾(高知)戦から6日間で674球を投げた。休養日がない時代だった。日本高野連は20年から1週間500球以内の球数制限を設け、いまのルールなら投げられない。決勝は乱打戦に敗れ、大野は16安打と打ち込まれた。

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1979生まれ。京都府出身。2003年入社で阪神を中心にカバー。
広島担当、プロ野球遊軍をへて、2021年からアマチュア野球担当。
無類の温泉好きで原点は長野・昼神温泉郷。