【特別編集委員コラム】7/15は石田文樹氏の命日 KK斬り取手二エース/連載15

7月15日は、取手二高のエースとして甲子園優勝を果たした石田文樹さんの命日です。ベイスターズの打撃投手だった石田さんは、2008年のこの日、直腸がんのため亡くなりました。41歳の若さでした。あれから15年が経ちました。今年のベイスターズの戦いを見守ってくれているでしょうか…

プロ野球

◆飯島智則(いいじま・とものり)1969年(昭44)生まれ。横浜出身。93年に入社し、プロ野球の横浜(現DeNA)、巨人、大リーグ、NPBなどを担当した。著書「松井秀喜 メジャーにかがやく55番」「イップスは治る!」「イップスの乗り越え方」(企画構成)。日本イップス協会認定トレーナー、日本スポーツマンシップ協会認定コーチ、スポーツ医学検定2級。流通経大の「ジャーナリスト講座」で学生の指導もしている。

石井琢朗が涙の弔辞

石田文樹さんが、直腸がんのため亡くなったのは2008年(平20)7月15日でした。41歳の若さでした。

1PL学園を破り初の日本一に輝いた取手二の選手たち。左から2人目が石田

1PL学園を破り初の日本一に輝いた取手二の選手たち。左から2人目が石田

3日後の7月18日に新横浜に近い斎場で行われた葬儀、告別式では、弔辞をのべた石井琢朗選手(現コーチ)の慟哭が響きました。

「この2、3日はずっと泣きっぱなしでした。練習でも試合でも石田さんの影がちらついてたまらない…。ともに歩んできたこの20年間を誇りに思います」

石田さんと石井琢は1989年(平元)大洋ホエールズに同期で入団しました。石井琢が投手だった時代はともに練習に励み、野手に転向してからは打撃投手として練習を手伝ってもらっていました。プライベートでもゴルフなどを楽しむ、大切な先輩だったのです。

石井琢の言葉を聞きながら、参列する人々の肩が大きく震えていました。私も涙が止まりませんでした。

あれから15年が経ちました。

2008年7月18日、石田さんの告別式で涙を流しながら弔辞をのべる石井琢朗

2008年7月18日、石田さんの告別式で涙を流しながら弔辞をのべる石井琢朗

石田さんは取手二高のエースとして1984年(昭59)に夏の甲子園で優勝しました。決勝戦では桑田真澄、清原和博を擁するPL学園(大阪)を延長の末に破って日本一に輝きます。名将、木内幸男監督が初めて甲子園を制した大会でした。

卒業後に大学に進むも中退し、社会人野球を経て大洋に入りました。現役としては1勝に終わり、打撃投手として長年チームに貢献していました。

2008年7月15日の広島戦は、石田さんの死を悼み半旗が掲げられた

2008年7月15日の広島戦は、石田さんの死を悼み半旗が掲げられた

いつも笑って話しかけてくれた

いつも穏やかな笑みを浮かべている人でした。私もよくゴルフの話をしたり、お互い太り気味だったのでダイエット方法などの話をしたものです。

石田さんが考案した「ビールダイエット」という、つまみなしで満腹になるまでビールを飲む方法に挑戦しました。まったく効果がなく、2人で大笑いした記憶が残っています。

思い出深いのは、ベイスターズの親会社がマルハからTBSに移った2002年です。当時の私は強気一辺倒の若造で、球団経営に携わるTBS関係者と口論になって、ほとんどケンカのような状態に陥った時期があります。

親会社が変わって球団内も混乱していますから、こうした関係には周囲も敏感になります。多くの球団関係者が私との接触を避けるようになりました。新しいオーナー企業の人々に、私と親しいと思われたくなかったのでしょう。

そんなときでも、石田さんは変わりませんでした。私が一塁側ベンチに1人で座っていると、隣に来て「お前、またハゲてきたんじゃないか?」などと軽口を言ってきました。

「石田さん、オレと話していると球団に目を付けられますよ」と言って事情を説明しても、笑っているだけで、翌日もまた話しかけてくれました。

当時のチーム内は球団経営や体制がどうなるか、誰が主導権を握るとか、そんな話題ばかりでしたが、石田さんと難しい話をした覚えはありません。

ゴルフでバーディーを取った話、息子さんの野球の話…そう、取手二高がどれだけおもしろいチームだったかも、いろいろと話してもらいました。

優勝後、ナインに胴上げされる石田

優勝後、ナインに胴上げされる石田

「あいつのこと、たっぷり書いてくれ」

石田さんが亡くなってから9年後、甲子園で優勝した当時の取手二高を書くチャンスが巡ってきました。

2018年(平30)に夏の甲子園大会が100回大会を迎えることから、日刊スポーツでは前年の2017年に高校野球の連載をスタートさせました。元球児の高校時代を振り返る企画で、会議でいろいろな候補者が挙がりました。

その中に「取手二高の吉田剛」という名前が出てきましたが、最初は意に介していませんでした。プロでは近鉄、阪神と関西の球団でプレーした選手なので、大阪の記者が担当するだろうと思っていたのです。

しかし、ふと「これは石田さんを書くチャンスではないか」と思いつきました。石田さんと吉田剛さんは同い年のチームメートだったのです。私は手を挙げ、面識もない吉田さんの連載を担当すると宣言しました。

1984年10月、国体で記念写真に納まる前列左から吉田、清原、桑田、石田、中島

1984年10月、国体で記念写真に納まる前列左から吉田、清原、桑田、石田、中島

吉田さんとは2017年11月2日、大阪・北新地にあるANAクラウンプラザのロビーで待ち合わせました。初対面のあいさつをして、吉田さんが経営するダイニングサロン「T2 KITASHINCHI」へ向かって歩き出しました。

「わざわざ東京から来たのか? 大阪の日刊スポーツって、すぐ近くにあるよな」

「立候補したんです。私、ベイスターズの担当をしていたので、石田さんにお世話になったんです。あくまで吉田さんの連載ですが、石田さんのことも書きたいんです」

勢い込んでそう言うと、吉田さんはしばらく何も言わずに30秒ほど歩いた後で、立ち止まり、私の方を向きました。

「そうか、石田を知っているのか。あいつのこと、いっぱい書いてやってくれ」

すぐに取材を始める予定でしたが、食事をしてからゆっくり話をしようということになり、途中のしゃぶしゃぶ店に寄りました。その後、吉田さんの店に行って、たっぷりと高校時代を振り返ってもらいました。

取材が終わると当時のチームメートに電話をかけ「日刊スポーツが取材に行くから、みんなで協力してやってくれ」と言ってくれました。

優勝後、宿舎に戻って記念写真を撮る。前列左2人目から石田、木内監督、吉田

優勝後、宿舎に戻って記念写真を撮る。前列左2人目から石田、木内監督、吉田

「石田はいい子だった…」

茨城では、すでに監督を退任していた木内さんにも話を聞く機会に恵まれました。

木内さんは、石田さんの葬儀に参列しなかったそうです。

「怒っていたの。そんな治らねえまで何で放っておいたんだ。大会社にいて何だって。あいつが死んだって信じたくない思いもあったから。でも、今は後悔してんだ、葬式にも行ってやればよかったって」

軽妙に語っていた木内さんが、しばらく沈黙した後に、小さな声で言いました。

「いい子だったもん。うん、石田はいい子だった…」

チームメートからはPL学園との決勝戦の様子を聞きました。

9回表に同点ホームランを浴び、次打者に死球を与えると、木内監督は石田さんを右翼に回し、控え投手をマウンドに送りました。PLが犠打で走者を送り、4番清原を迎えたところで、再び石田さんがマウンドに戻ります。ワンポイントリリーフだったのです。

PL学園との決勝戦、石田(左)は9回、清水哲に同点ホームランを浴びる

PL学園との決勝戦、石田(左)は9回、清水哲に同点ホームランを浴びる

この場面を連載から書き出しましょう。

 木内 石田は一番努力する子だったけど、気が弱いところがあった。どうしていいか分かんなくなっていた。1つ冷静にしてやっかなと思って。(中略)石田は戻ってきたらニコニコしていたよね。その顔を見て「もう点は取られねえ」と確信しました。

 映像を見ると、確かにマウンドに戻った石田は笑顔で投球練習をしている。一体どんな思いでマウンドに戻ったのか? 彼は08年に直腸がんで逝去しており、その思いを聞くことはできない。

 代わりにチームメートに聞いた。三塁を守った小菅が言う。

 小菅 投球練習の時、目が合ったんですよ。目で「よく戻ってきたな」と語りかけたら、ニヤッとしてね。「おう、戻ってきたよ」という感じかな。あいつ口べただから、もしコメントを聞いても「また投げられてうれしかった」だと思うよ。

 下田 ニヤッというか半ニヤッだね。はにかんだ感じだよ。

 小菅 そうそう、石田はハニカミ王子だから。高校球児がスマイルの時代じゃないしね。

優勝を決めて飛び上がる取手二・石田

優勝を決めて飛び上がる取手二・石田

半ニヤッとした石田さんの顔が、今も目に浮かびます。

石田さん、今年はベイスターズが優勝するかもしれませんよ。石井琢朗が三浦大輔監督を助けて、頑張っています。

編集委員

飯島智則Tomonori iijima

Kanagawa

1969年(昭44)生まれ。横浜出身。
93年に入社し、プロ野球の横浜(現DeNA)、巨人、大リーグ、NPBなどを担当した。著書「松井秀喜 メジャーにかがやく55番」「イップスは治る!」「イップスの乗り越え方」(企画構成)。
日本イップス協会認定トレーナー、日本スポーツマンシップ協会認定コーチ、スポーツ医学検定2級。流通経大の「ジャーナリスト講座」で学生の指導もしている。