「記者が振り返るW杯の歴史」の第3弾は、11年ニュージーランド(NZ)大会。87年の第1回ワールドカップ(W杯)でトライ王に立った元NZ代表のジョン・カーワン・ヘッドコーチ(HC)が2大会連続で日本代表を率い、2勝を目標に掲げながら1分け3敗だった。20年ぶりの勝利は逃したものの、強豪フランスを本気にさせ、世界と戦うかすかな手応えをつかんだ大会だった。

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8年前の日本には、強くなる予感のようなものがあった。ただそれはあくまでも予感であり、決して確信に変わることはなかった。

11年9月10日。オークランド郊外のノースハーバースタジアムで「ジャパン! ジャパン!」の大合唱が起きた。W杯初戦は優勝候補に挙げられたフランス。現地の熱狂的な観衆は、欧州の強豪を見に来ていた。予想通り11-25のフランスリードで終えた前半、日本への声援は皆無。だが日本は後半8分にSOアレジのトライとゴールが決まり、同17分にはPGでついに21-25の4点差に迫った。状況は一転し、フランスがボールを持つだけでブーイングが起きた。興奮した現地の老夫婦が記者席の窓をノックし、日本人記者にこう言ったのを覚えている。

「素晴らしい。日本がこんなに勇敢だとは、全く知らなかった」

W杯過去1勝の弱小国が見せたひたむきなタックル、全員でボールをつなく姿は現地の人の胸を打った。

それでも相手を本気にさせると、差は明らかだった。残り15分で3連続トライを許し結局は21-47。7点差以内に与えられるボーナス勝ち点も逃したが、かつてない手応えを得ていた。

NZの英雄でもあるカーワンHCは、母国での大会を前に選手にこう説いた。

「私が出た最初のW杯(87年第1回W杯)は記者が2人だけだった。ラグビー(の方向性)がどこに行くかすらも分からなかった。でも周りからは『人生最大のイベントだ』と、『結果を残すことで判断される』と。その通りだった」

当時、注目度は高かった。会見には日本、海外も含め50人以上の報道陣が集まった。勝ち方を知らない選手へ、同HCは結果を残すことの重要性を強調したが1勝は簡単ではなかった。

2戦目は開催国で当時世界ランク1位のNZ。日本は残るトンガ、カナダ戦で2勝するために主力を温存した。勝負を捨てた試合は13トライを浴びて7-83の大敗。3戦目のトンガは07年から5連勝中だったが、自信を失ったチームはミスを連発し18-31で負けた。最終戦のカナダには23-23の引き分け。1分け3敗の未勝利。WTB小野沢の言葉は印象的だった。

「簡単に(W杯は)勝てない。これまでも勝ててこなかったから、今がある。『いつも通りやればきっと勝てる』は、いつも通りではない。今までも勝てていないのですから」

屈辱にまみれた大会でも、唯一の希望はあった。あのフランスを、残り15分まで追いつめ、本気にさせたという事実。だが、4年後に日本が世界を驚かすことになるとは、まだ誰も気づいてはいなかった。【益子浩一】

◆第6回(07年、フランスなど)日本は元ニュージーランド代表のカーワン監督のもと、箕内拓郎が2大会連続で主将。大敗した初戦のオーストラリア戦からフィジー、ウェールズと連敗も、最後のカナダ戦で引き分け、W杯連敗を13でストップ。WTB小野沢、CTB大西ら。南アフリカが2度目の優勝。

◆第7回(11年、ニュージーランド)前回大会ベスト12が予選免除。2大会連続でカーワンが監督を務めた日本は、フランス、ニュージーランド、トンガに3連敗。最終戦でカナダと前回大会に続く引き分けとなり、またしても勝利を逃した。フランカー菊谷崇主将、SH田中史朗、HO堀江翔太ら。優勝はニュージーランド。

07年9月27日付日刊スポーツ東京版
07年9月27日付日刊スポーツ東京版
ジョン・カーワン氏
ジョン・カーワン氏