日本代表フランカーのリーチ・マイケル主将(30=東芝)は04年春、札幌山の手高での留学生活をスタートさせた。「原点」と語る3年間で、心身ともに大きく成長。日本への愛情を深めながら、日本代表、世界的名手へと飛躍する土台を築いた。

高校時代のリーチと佐藤監督(左)(札幌山の手高提供)
高校時代のリーチと佐藤監督(左)(札幌山の手高提供)

04年6月。クリクリとした目が印象的な15歳の少年が、希望を胸に北海道の地を踏んだ。177センチ、76キロ。緑の芝が広がるニュージーランドとは違い、グラウンドは土。冬になると強烈な寒さが襲う。そんな環境にも、リーチは嫌な顔一つせず、他の1年生と同じように部の仕事をこなし、1人必死で日本語を学んだ。

留学を受け入れた佐藤幹夫監督は「それまでの留学生のイメージとは違う、細くてかわいい感じ。大丈夫かなと思った」と初対面時の印象を語る。だが、そんな不安もすぐに消えた。1カ月後の試合で、体格で勝る相手のトンガ人留学生を強烈なタックル1発で吹っ飛ばしたのだ。技術的には未熟だったが、ピッチ上での闘争心と、負けず嫌いな性格に、「これは、大物になる」と成長を予感した。

純粋な人柄は札幌の町でも愛された。定食屋の“がんこおやじ”の心をつかみ、トンカツのサービスがお決まりになると、そば屋では店主の子どもに英語を教える代わりに、無料でそばをごちそうになった。選手としての転機は、1年時の全国高校大会2回戦。トンガ人留学生を擁した正智深谷に5-89と大敗。「けちょんけちょんにされて札幌に帰った。あそこが僕のスタート」(リーチ)とそれまで以上にラグビーと真剣に向き合うようになった。

常にボールを持ち歩き、練習外の時間にタイヤ引きや学校近くの山でのダッシュを繰り返した。佐藤監督は「チームも強くなかったし、仲間のためにという思いも高校時代に学んだと思う」と語る。肉体強化も本格的に始め、就寝前にバターを塗った食パンを8枚食べ、2年時には95キロ、3年時は100キロになった。敗戦の屈辱をばねに成長を続けるリーチに、佐藤監督はことあるごとに同じ言葉を投げかけた。「将来、マイケルが主将になって日本代表を強くしろ」-。

「原点」と語る札幌での3年間で、リーチは日本文化を学び、日本人の温かさに触れ、日本への愛情を深めた。進学した東海大では1年でレギュラーをつかみ、2年時の08年11月に日本代表初キャップを獲得。15年ワールドカップ(W杯)は、主将として歴史的3勝を挙げたチームを引っ張り、恩師からの言葉通り、弱かった日本代表を変えてみせた。

佐藤監督 マイケルには道を切り開く力がある。レベルが上がれば、いつもそこがあいつのスタート。考え方の根底に相手へのリスペクトがあるから誰からも愛される。人の言葉に耳を傾けられるから、人の知恵を借りて成長できる。そうやって一段ずつ階段を上がってきたんだと思う

15歳で日本に来て、15年。「運命的」と語る日本でのW杯を前に、リーチは、世界に飛び出すきっかけをくれた母校に、自らが費用を受け持ち、ラグビー不毛の地モンゴルから留学生を招くプロジェクトをスタートさせた。外国人の子どもへのチャンス拡大。アジアラグビーの普及…。込める思いは1つではない。

高校3年時、佐藤監督にジーパンを買ってもらい大喜びした少年は、日本で学んだラグビーで成功をつかみ、人生を切り開いてきた。だからこそ、過去と未来をつなぐように言葉に力を込める。「きっかけが大事なんだ」。W杯後の2020年、モンゴルから1人の少年が日本にやってくる。日本代表のW杯での活躍、そして、その先の日本ラグビーの発展。リーチには、そんな景色が見えている。【奥山将志】(おわり)