リオデジャネイロ五輪で結果を出した選手たちは、3年9カ月後に迫った東京五輪・パラリンピックへ動きだしている。主役となるアスリートはリオ五輪で何を学び、それを母国開催でどう生かすのか。リオ五輪メダリストに自身の成功の背景にある経験や、東京への思いを聞く。1回目は、カヌー・スラロームではアジア人初のメダルとなる銅メダルを獲得した〝ハネタク〟こと羽根田卓也(29=ミキハウス)にリオで得た教訓と日本カヌー界の課題を聞いた。【取材・構成=井上真】


■風邪をひく ケガをする パドルが折れる 米がない…どんなに準備しても思い通りにはならない海外経験


■開き直りでリラックス


 カヌーのオフシーズンに入り、羽根田は水上トレーニングから離れ、主に器械体操などの陸上トレーニングでフィジカル強化に取り組んでいる。

 リオ五輪に出場した日本人選手の中で、五輪の前後で最も知名度が上がったのが羽根田だろう。「おかげさまでいろんなところで取り上げていただいています。皆さんにカヌーの存在を知っていただけるチャンスですから、可能な限りで取材を受けています」。

 イケメンで日本人初のメダル獲得を日本カヌー界にもたらし、一躍人気者になった。テレビ出演で華やかな芸能人ともトークを楽しむが、激変する環境の中でも自分を変えない。常に所属するミキハウスの上着を持参し、写真撮影では「着替えていいですか」と丁寧に断り、赤いミキハウスのジャンパーを羽織ってニッコリポーズ。落ち着いた口調と、周囲を緊張させない温和なムードと気配りで、29歳とは思えない存在感がある。

 騒がしかった周囲の状況も落ち着きを取り戻しつつあり、羽根田はリオ五輪本番について具体的に思い出し、当時の精神状況とレースを振り返った。

 羽根田 五輪の本番前に僕は風邪をひいてしまったんです。測っていないから分かりませんが、38度まではなかったと思いますが、熱はありました。だから、決勝の前もずっと横になってマッサージを受けてました。コンディションとしては悪かったですね。僕は開き直りました。いい感じにリラックスしてました。

 羽根田はこれまでも国際大会などで何度かアクシデントに見舞われてきた。

 羽根田 以前、W杯の直前にパドルが折れたことがありました。その時は「ふざけんなよ ! 」って、頭にきていました。今思えば、W杯は毎年数試合あるんです。だから、取り返しはつきます。でも、オリンピックは4年に1度。取り返しはつかない。でもパドルが折れたことも含めて、万全じゃなくても試合は来るんだって、知っていたのが大きかったですね。アクシデントは起こり得る。ケガや病気、道具の不備ですね。どんなに準備をしていても、それが身に降りかかる。それを経験してたから、その時のベストを尽くそうって、思えるようになるんですね。


■ルーティンを作らない


 北京大会では14位、ロンドン大会では7位。3度目の五輪でメダルを獲得した羽根田は、3度の五輪を含めた国際大会を通じて得た考えがある。

 羽根田 僕はルーティンを作らない派です。よく、「私はこの状況じゃないと実力を発揮できない」って、考えを聞くことがあるんです。実際に20歳前後の僕がそうでした。「(試合までの準備は)こうじゃなきゃ嫌だ」と思ってました。つまり思う通りに準備できないと気が済まないんですね。でも、海外の大会に出てみると、いろんなことが起きる。米を食べて試合に備えたいのに、米が手に入らないとか。でも、その環境の中で対応できるようになっていきました。だから、自然とルーティンは作る必要がないって考えになっていきました。こだわりを持つ選手もいますし、それはとてもデリケートで大切なことだと思います。僕は思う通りの環境で試合に臨めずに力を出せないことを経験して、「タフ」な心をつくっていったんだと思います。特に、五輪のような大きな舞台では「タフな心」はとても大切なんだと学びました。

 予想外の事態に置かれ、ルーティンどころじゃない状況でも結果は求められる。その時にどうやって心の平静を保つか。羽根田は五輪という特殊な瞬間に、最強の対応力を身に付けたといえる。そのタフさが、羽根田を4位と0・13点差でメダルに導いた要因といえる。


■日本のカヌーレベルが上がったと思って欲しくない

■僕がスロバキアに行ってなければ銅獲得はなかった


 そして東京に目を向けた時、羽根田にはぜひみんなで議論してもらいたいテーマがある。

 羽根田 僕がメダルを取ったことで、アジア人も勝てることを証明したことになりました。体格、人種は関係ない。でも、環境がないと勝てない。中国は人工コースがありましたが、勝てていません。僕がコースを持たない日本という環境を飛び出して、スロバキアに練習環境を求めた。つまり、ヨーロッパの選手と同じ環境なら、アジア人でも勝てるっていうことなんです。体格や人種は関係ないけど、環境がないと勝てない、ということだと思います。

 そこを検証せずに、銅メダルをベースに根拠のない期待感だけが先行することに危機感を覚える。

 羽根田 競技力というのは、個人の才能に頼っていては限界があると思うんです。僕が今回、銅メダルを獲得したからといって、日本カヌー・スラロームの競技力の証明にはなりません。常に日本の選手の上位4、5人が世界とのトップ争いをするようになって、初めて競技力が上がったと言えるんだと思います。今回の五輪で、よく「悲願のメダル」という表現をされるんですが、私はカヌー連盟も日本オリンピック委員会(JOC)の方も、選手の育成に携わる多くの方にも考えてもらいたいことがあります。それは、僕がたまたまスロバキアに行ってなければ、メダル獲得はあり得なかった、ということです。海外に行こうという決断なしに、僕の父親が支援をしてくれたという事実を抜きに、銅メダルはなかった。僕がメダルを取ったことがまぐれ、ということではなくて、海外(スロバキア)に行こうと思ったのは、たまたま僕がそう思い立っただけのことです。そこの背景には指導者やカヌー連盟など、何の計画性もなかったということです。僕がたまたま思いついて行っただけなんです。そして幸運なことに父親の支援も受けることができました。だから、このリオ五輪での成績をもって、日本のカヌーのレベルが上がったと思って欲しくないですし、これからはメダル量産だ、なんて思っていたら成長はないんです。


■「お前安上がりな選手」


 羽根田はスロバキアのカヌーの選手からこんな言葉をかけられる。「お前は安上がりな選手だ」。羽根田が連盟や国からの支援を受けずに国際大会で成績を上げてきたからだ。

 羽根田 僕は国や連盟のサポートをほとんど受けずに今日までやってきたという自負が誰よりもあります。だから、カヌー競技を真剣に考えている連盟の方や指導者の方は、選手がどうしたら力をつけるのかを、今回の私のプロセスからよく検証してもらいたいんです。今こそ、地に足をつけて分析し、本当に成長につながる戦略、プランを考えてもらいたいと痛感しています。


■門減点0が明暗アジア人初メダル


 ◆リオ五輪カヌー・スラローム男子カナディアンシングルVTR(16年8月9日) 予選は全体5位に入るまずまずのスタートで、上位14位までの準決勝に進出。準決勝はトップと3・21点差の6位で10位までの決勝に進んだ。決勝ではコースの終盤に激流に艇が取られ、スタートからゴールまでのタイムは7番目と伸びなかったが、接触せずに旗門を完全通過。ロンドン五輪銀メダルのタジアディスらトップ選手が旗門接触を犯す中で、この旗門減点0が明暗を分けた。4位ビテスラフとはわずか0・13点差の97・44点の僅差で3位に入った。カヌー・スラロームでは男女を通じて、アジア人初のメダル獲得の快挙を達成した。

 <羽根田卓也メモ>

 ◆誕生 1987年(昭62)7月17日、愛知県豊田市生まれ。

 ◆きっかけ 小3の夏、元カヌー選手の父邦彦さんに勧められ矢作川で鍛錬。「水は冷たい、溺れるし嫌々」。中3の夏、ジュニア世界選手権で42位と惨敗し「人生をかけるに値する」と専心。愛知・杜若(とじゃく)高時代は朝6時起きで朝練に励む。

 ◆留学 杜若高卒業前に父に留学を直訴。「いつか必ず首にメダルをかけるから」と、手紙に書いたのは有名。06年3月から強国スロバキアに渡り、09年から地元のコメニウス大(体育大)大学院に在籍しながら練習を続ける。

 ◆頭角 14年世界選手権5位、アジア大会金。今年6月18日のW杯第3戦(フランス)でスラローム日本勢初の表彰台となる3位に輝く。

 ◆趣味 歴史小説を読むこと。子供の頃もお経を読んだり仏の絵画を見るのが好きだった。好きな歴史上人物である宮本武蔵の「千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって錬となす」を座右の銘にする。

 ◆五輪 08年北京大会は14位、12年ロンドン大会は7位入賞。

 ◆ハネタク リオ五輪前にテレビ朝日のバラエティー番組「マツコ&有吉 怒り新党」で取り上げられ、出演するタレントのマツコ・デラックスから「ハネタク」の愛称をつけられる。

 ◆家族 豊田市内で設計事務所を開く日本カヌー連盟理事の父邦彦さん(57)と母ひとみさん(55)。兄弟は兄翔太郎さん(32)弟和隆さん(28)の5人家族。

 ◆サイズ 175センチ、70キロ。

(2016年11月9日付本紙掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。