スピードスケート中長距離のエース高木美帆(23=日体大助手)が、1分54秒55で銀メダルを獲得した。日本女子のスピードスケート個人種目メダルは、98年長野大会500メートル銅の岡崎朋美以来20年ぶり。10年バンクーバー大会にスピードスケートで国内史上最年少の15歳で出場も、14年ソチ大会は落選。挫折を乗り越え、うれし涙を流した。日本のエースとして金メダルが期待される女子団体追い抜き(21日)にも弾みをつけた。
悔しさは、天を見上げた一瞬で忘れた。ようやく会場の大歓声が耳に響いた。高木美は何度も拳を握り、優しくうなずいた。フォームは乱れ、もう滑れないほど出し切った。支えてくれたコーチ陣の顔がにじんで見えた。子供のようにぴょんと飛び乗った表彰台。0秒20の差を感じると、また悔しさが戻ってきた。「いろいろな人に支えてもらって、こみ上げる気持ちはあった。でも、やっぱり金を取りたかった」。充実感の中で感じる2つの思い。それだけ、この4年間にかけてきた。
13年12月29日。順調に時を刻んでいた時計の針が、ぴたりと止まった。ソチ五輪、落選。リンク内のいすで1点を見つめる姿に「スーパー中学生」と騒がれた輝きはなかった。調子は良くなかったが、どうにかなると思っていた。必死に五輪を目指す選手を格好悪いと感じたことさえあった。だが、そんな選手が目の前で五輪の切符を勝ち取った。4歳上の兄大輔さんから電話が鳴る。「ソチに向かってやり切ったって言えるか?」。涙があふれた。
ソチ五輪閉幕1カ月後の14年3月。世界選手権のため訪れたオランダで、日体大の青柳監督に頭を下げた。「新しいスケート靴を作りたい」。硬い素材に替えることを勧められても、「これでやってきたから」と高校時代から使う軟らかい靴に固執した。自問自答を繰り返した3カ月。「変わらないと」-。変化を恐れた自分との別れだった。4年後の平昌五輪に向け、再び時が動き始めた。
「日本の宝」とまでいわれた天才が初めて直面した挫折。もう負けたくない。もうぶれない。「4年間、スケートにすべてをかける」。覚悟が決まれば、やり抜ける。思い返せば、そうやって強くなってきた。
高木家の壁には「継続は力なり」と書かれた紙が貼られている。3兄姉がスケートを続けるため、両親が懸命に働く姿を見てきた。兄が中1から新聞配達を始めると、高木も続いた。起床は朝4時。北海道のいてつくような寒さの中、雪が降ればリュックに新聞を詰め、1軒1軒歩いて配った。体力をつけるため5キロ走ってから登校し、学校が終わればリンクへ向かう。中3で五輪に出ても、高校を卒業するまでその姿は変わらなかった。
出会いも成長を加速させた。15年からナショナルチームで指導を受けるヨハン・デビット・コーチ(オランダ)から、世界と戦う意識を植え付けられた。母国のトップ選手の詳細な体力数値を見せられ、「負けていない」「逃げるな」と熱い言葉で背中を押された。夏場の自転車練習で下半身を鍛え抜き、課題だったレース終盤の伸びが増した。16年にW杯で初優勝。詰まっていた才能があふれ出るように、一気に世界のトップへと駆け上がった。
4年前、弱さを認めたことから始まった道は、まっすぐに平昌へとつながった。個人種目では日本女子最高の銀メダル。駆け抜けたその両足には、あの日オランダで作った紫色の靴が輝いていた。【奥山将志】
ヨハン・デビット・コーチのコメント 自分も含め、誰もが誇りに思って良い結果だ。美帆ならできると思っていた。五輪の重圧の中で銀メダルを取った。美帆は強くなっている。
<高木美帆(たかぎ・みほ)アラカルト>
◆生まれ 1994年(平6)5月22日、北海道幕別町生まれ。家族は父愛徳さん(60)、母美佐子さん(55)、兄大輔さん(27)、姉菜那(25)の5人家族。
◆サイズ 164センチ、58キロ。
◆スケート 兄姉の影響で5歳から競技を始め中学で全日本ジュニア選手権総合V。高校では世界ジュニア選手権で日本人初連覇。W杯は個人通算7勝。1500メートル、3000メートル日本記録保持者。
◆最年少五輪 バンクーバー五輪の国内選考会1500メートルで優勝。1000メートルでも3位に入り、国内史上最年少の15歳で1000、1500メートル、団体追い抜きで五輪代表に選出。
◆運動神経 中学時代はサッカー部にも所属し、女子の有望選手として代表候補合宿にも招集された。ヒップホップダンスも得意。
◆趣味 ジグソーパズル。最高傑作は「くまのプーさん」1000ピース。