ゴルフ界の“ドン”が逝った。50年以上にわたって現役を続けたプロゴルファーの杉原輝雄(すぎはら・てるお)氏が28日午前8時30分、前立腺がんがリンパに転移し、大阪府の自宅で死去した。74歳だった。身長162センチの小柄な体でも「マムシ」と呼ばれた粘り強いプレーでトッププロの地位を築き、国内外で通算63勝。97年に前立腺がんを患った後も手術を拒み、09年にはリンパへの転移が発覚。それでも現役続行に意欲を見せていた。葬儀・告別式は近親者のみで執り行い、後日お別れ会を開く予定。喪主は長男でプロゴルファーの敏一(としかず)氏。

 小さな体で必死に病魔と闘ってきた杉原氏がこの日午前、逝った。大阪府内の自宅で玲子夫人(73)に見守られ、静かに息を引き取った。関係者によると、11月から自宅療法を続けていたが、数日前から食欲もなくなり体力も落ちていたという。97年末に前立腺がんを宣告されながら手術をせず、ゴルフスタイルと同様に「マムシ」のように粘り強く闘病を続けてきた。

 ゴルフができないほど体調を崩したのは、昨夏だった。がんは09年1月にリンパへ、昨年8月には喉へ転移。すぐに入院したものの放射線治療で喉は痛み、食べ物が口を通らない。まるで別人のように、声はガラガラになった。今年初めにはいったん体調も回復しツアー復帰へ意欲を見せていたが、4月ごろからまた病状が悪化。試合には出場できず、入退院を繰り返していた。

 162センチ、60キロの体は、不屈の魂で支えられていた。農家の三男として生まれ、小学生のころから大阪・茨木CCでキャディーとして働き、中学卒業後に同CCに就職。「客がラウンドする前から、終わるまで練習グリーンでずっとパットをしていた」と言われるように、努力を続けて20歳でプロテストに合格。62年日本オープンで初優勝を果たし、その後も毎年勝利を積み重ねた。

 杉原氏に刺激を与えたのは、プロ野球から転身して70年にプロ入りした尾崎将司だった。180センチの恵まれた体から圧倒的な飛距離を武器にした尾崎将に対し、杉原氏はショットの精度と小技、しぶとい精神力で立ち向かった。関西の若手を引っ張るリーダーとしても慕われ、84年から5年間は男子ツアーの初代選手会長を務めた。ゴルフ界の“ドン”として存在感は絶大だった。

 選手生命の危機に立たされても動じなかった。87年、突然激しい腹痛に見舞われた。腎のう胞だった。しかし、52歳だった89年ダイワKBCオーガスタで復活優勝。さらに危機が訪れる。97年12月に「前立腺がん」を宣告された。だが「ジャンボを倒すまでやる。自分には時間がない」と手術を拒否。週1度の加圧式トレーニングも続け、飛距離アップへの執念も見せた。68歳10カ月だった06年4月つるやオープンでは、レギュラーツアー世界最年長で予選を通過。気力の源について問われると「お金がないからね」と軽快なジョークを飛ばしていた。

 しかし、09年1月にがんがリンパへと転移していることを告白。直後に、放射線療法を受けたが体への負担が大きく、わずか4日間でいったん中止。そんな中でも昨年4月、中日クラウンズで同一大会51年連続出場の世界新記録を樹立。過酷な闘病を続けながらの快挙は、まさに奇跡的だった。結局、昨年6月ミズノよみうりが、最後の試合になった。

 勝負の世界では「マムシ」と言われながら、私生活では足の不自由な猫を優しく介護し続けた。頼まれ事は断らない、温かい心の持ち主だった。個性的なスイングと勝負強さでファンを引きつけた名ゴルファーが、冬空の天に召された。【木村有三】