元プロレスラーのラッシャー木村さん(本名・木村政雄)が24日午前5時30分、都内の病院で腎不全による誤嚥性(ごえんせい)肺炎で死去した。68歳だった。木村さんは64年10月に日本プロレスに入門。70年に国際プロレスで日本初の金網デスマッチを行い「金網の鬼」と呼ばれた。その後は各団体を渡り歩き、84年に全日本プロレスに参戦。故ジャイアント馬場さんらとのマイクパフォーマンスで人気を集めた。00年にノア参加後、04年7月に体調不良を理由に現役引退を発表していた。通夜・告別式は遺族の意向で親族のみで行われる。

 現役晩年に絶妙なマイクパフォーマンスでプロレス界をわかせた木村さんがひっそり永眠した。24日早朝、腎不全による誤嚥性肺炎で帰らぬ人となった。04年7月の現役引退発表後も故三沢光晴前ノア社長の意向で、同団体専属として残留。09年6月の三沢さんの葬儀に車いすで参列したのが、最後に公の場の姿となった。

 現役引退発表前後から深刻な体調不調を抱えていた。引退後の04年に脳内出血で倒れて右半身不随となった後は、入退院を繰り返していた。国際プロレスで一緒だった鶴見五郎氏は「最近は『元気な姿を見せられないから』と見舞いも断っていた」と言葉を詰まらせた。

 ただ三沢さんの葬儀出席だけは別だった。元プロレスラーのマイティ井上氏は「(木村さんが)馬場さんと並んで、三沢にはとても世話になった。どんなことがあっても三沢の遺影に手を合わせないといけないと思った、と話していた」と明かす。ノア仲田龍GMによると「何でオレみたいなヤツより先に亡くなるのかな」と悲しんでいたというが、その約1年後に木村さんもこの世を去った。

 全盛期は「金網の鬼」と呼ばれた。70年8月に日本初の金網デスマッチでドクター・デスにKO勝ち。75年にはマッドドッグ・バションと金網デスマッチ初のタイトル戦で勝利、IWA世界ヘビー級王座を獲得。国際プロレスのエースとして活躍した。81年の同団体崩壊後は、新日本に殴り込み、アントニオ猪木と対戦するなど、各団体を渡り歩いてタイトル戦線にも絡んだ。全日本では故ジャイアント馬場さんと兄弟の契りを交わし、ファミリー軍団を結成。悪役商会との前座試合でのマイクパフォーマンスで「マイクの鬼」と呼ばれた。

 普段は口数が少なく、若手を誘って酒を飲むのが好きな温厚な人物だった。1人でウイスキーのボトル4本を空けた逸話もある。キャバレーでは笹みどりの「下町育ち」を甘い声で熱唱していたという。「木村さんのことを悪く言うレスラーは1人もいなかった」(マイティ井上氏)。03年3月のノア武道館大会での61歳8カ月でのファイトは現在も日本人プロレスラーの現役最年長記録。金網とマイクで一世を風靡(ふうび)した名物レスラーを、もう見ることはできない。