ついにNHKの大河ドラマ「青天を衝け」が始まった。書店に行くと渋沢栄一関係の本が並ぶ。「論語と算盤」が売れている。すぐに教育関係のページをめくる。残念ながら、たいしたことが書かれていない。もしかすれば、体育やスポーツに関係していたかも知れないと興味をもったが、ペケだった。

ところが、公益財団法人の渋沢栄一記念財団の資料によれば、1892年から1940年まで、日体大の法人であった日本体育会(現日体大)に協力してくれていることが判明したのだ。早速、日体大の百年史(93年3月発行)を開いてみる。男爵、子爵、侯爵等に交ざって、渋沢栄一の名前を発見することができた。

日清戦争後、日体大は社会の支持を得て、第13議会で私立学校でありながら補助金が交付されることとなった。明治32年のことだ。私立学校で補助金を受けるのは日体大だけで、その理由は政府の代行機関として、種々の事業を行うためだ。とくに体育教員の養成と国民間に体育を奨励することであった。

明治政府は、日体大に特別の国庫補助を出すために、監視の目的と事業を拡張させるために、文部大臣の命令で臨時拡張委員会を委託する。その委員のそうそうたる名簿の中に渋沢栄一の名前がある。以後、日体大の会議は、渋沢が造った帝国ホテルで行われるようになった。メンバーの中に、ホテルオークラなどの大倉財閥を設立した大倉喜八郎もいるのがおもしろい。

渋沢は、1919年から国士舘大学の維持委員を務め、発展のために協力したと記念財団の資料にある。「日体大の臨時拡張委員となって、事業拡大に援助した」と書かれているため、私たち関係者は感謝せねばならない。渋沢が他に力を入れた学校は、高千穂学校(現在の高千穂大)で1903年から資金保管主任を務められ、学校運営を支援したという。

まさか日体大が渋沢栄一と関係があるなんて想像もしていなかったので驚いている。ちなみに日体大のパーティーは、今も帝国ホテルだ。