昨年12月の末、緩和ケア病棟に入院している74歳の男性を回診しました。胃がんでリンパ節と肺に転移があります。

 「物書きだ」と名乗りました。ぼくの回診を待っていたようです。話に花が咲きました。「どんなきっかけで本を書くようになったのですか」とぼくが聞きました。

★人生の疑問がきっかけ

 彼は大手電気メーカーに勤めていた。外国語のセンスが良く、ソ連(当時)支社の責任者を任せられていたといいます。

 49歳の時、自分の人生に疑問を持つようになった。このまま定年まで勤めて、ぬれ落ち葉のようになり、毎日何もすることがなくなることが恐怖だった。

 この時彼は、ソ連の生化学者オパーリンの言葉を思い出しました。

 「人間はさまざまな使命を帯びて生まれてくる。大事なことは、その使命に目覚めて生きるかどうかだ」

★一生に1回の人生を自由に生きる

 経済的には不安はあったが、彼は会社を辞めました。やりたいことをやろうと決め、一念発起して作品を書き始めたのです。

 「与えられた使命に気づくのは年齢に関係ない。早い者勝ちだ」

 「思い通りにはならなかったけど、何冊もの本を残すことができました。一生に1回だけの人生。自分のやりたいことをやれたので、すべて納得しています」

 彼はこの2週間後に亡くなりました。

 カナダのブリティッシュコロンビア大学が、興味深い心理学の研究を発表しています。「お金を持つこと」以上に「自由な時間を持つこと」に価値があると気づいた人は、人生の幸福度が高い。

 ぼくの手を握りながら、「先生、思い残すことはありません」。彼の言葉が今も耳に残っています。