我が国にはかつて「お歯黒」という文化があったことをご存じでしょうか。奈良時代に伝来し、平安時代では貴族階級の男女で広まったそうですが、男性でも位が高い人ほど歯を黒くしていたというエピソードを聞いた時は気絶しそうになりました。

浮世絵の美人画を見ると、どの絵も口元の印象が薄く、顔の大きさに比べて口の面積が非常に小さいことに違和感を覚えます。江戸時代は歯を出して笑わないことが女性の美意識とされた、既婚女性は歯を黒く染めていたなど、日本における「歯」の価値観には複雑な歴史があったのだなと改めて感じます。どんな魅力的な美人であっても思わず口元を隠すしぐさがなかなか世の中から消えないのは、遺伝子レベルで擦り込まれた行動なのかもしれません。

しかしながら歯科医としてもっとも興味深かったのは、緻密なエナメル質を真っ黒に染めるためにどんな技と染料を使っていたのかという点です。ご婦人たちは毎日せっせと歯の清掃にいそしみ、植物由来のタンニン(渋)と第一鉄を使った化合物を混ぜて黒く染め上げていたそうです。

お歯黒の人に虫歯が少なかったとの報告にヒントを得て開発された歯科薬品があります。1970年代の小児歯科治療に多用されていたフッ化ジアンミン銀(商品名サホライド)という薬品です。虫歯が進行している部分だけに反応し黒く変色するのが特徴で、虫歯の抑制効果が非常に高いという性質を持っています。

ドリルで削ることなく恐怖心をあおらずに進行を防ぐことが可能な一方、見た目がよろしくないという審美的な見地から一時は姿を消しつつありました。人口の高齢化が進む中、近年シニア世代に急増している根面う蝕(こんめんうしょく=根元の虫歯)の発見や予防に有益だとの見解から、再び脚光を浴びている注目株です。